政談27
【荻生徂徠『政談』】27
(承前) 昔は法は未熟だったが、武風が盛んだったから今のようなことはなく、世が次第に移り変わり、風俗も変わって武風が薄くなった結果、不埒者がのさばるようになった。今更武風を烈しくして昔のようにしても、泰平が久しく、諸事の釣り合いが昔と違っている以上、昔に戻すことはできない。逆に治めの妨げとなる。そもそも昔も法が未熟だったから行き届かなかったのである。
[注解]昔はよかったといっても、世の中は移り変わり、元に戻すことはできない。今の無責任な時代に比べて江戸時代はよかった、とはいっても、電気も水道もなく、情報のやりとりが文書でそれを足で運ぶ状態など現代人には無理。便利なものに浸かってしまったのだから。徂徠もそういったことは心得ていて、昔は武風が行き届いていたから不心得者は少なかったとはいえ、世の中全体を戻すことなどできない。それに、武風は法ではない。それを守るか無視するかはすべてその武士の胸先三寸にかかっている。悪事をしでかした者がいたら、恥を知って自分で自分の始末をつけるのが武風だといっても、それは法ではない。事実、恥を恥と思わない者が増えたから、住み込み先の金品を盗んで逃げる欠け落ちといったことが増え、それを取り締まる奉行所側でもいいかげんになり、大名は大名で事実関係すら明かさず、何事もなかったかのようにとぼける。こんな状況で武士なら武風をと言っても通じない。
今、特に政治家が「武士」を自称したり互いにたたえ合い、愛国保守と言われる人たちは「武士道」だの「大和魂」といったことを鼓吹している。その概念、中身が明確でないことは「武風」と同じですが、では武士を自称し、武士道や大和魂を称える人たちが公平公正で慈悲と博愛に満ちているかどうか。公約は完全に守っているか、不祥事不始末があれば相応の責任をとっているか(説明はどこまでも説明であり、言い訳でしかない。恥を知るというのは疑惑を持たれることをしないことであり、持たれた時点で出処進退を決めること)、国を愛する者が一方で特定の国や民族に対して無礼な振る舞いをしていないか。武士というのは常に自問自答し、おのれの言動に一点のやましいこと、恥じることがない、それを矜持としたものです。ただ、徂徠も言うように、そういうことを期待しただけでは甘いから、疑惑があれば徹底的に追及して処断し、無礼な振る舞いに対しても厳しく罰する法が必要だというわけです。
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