政談21

【荻生徂徠『政談』】21

(承前) 総じて地頭や代官は年貢を取るだけの役ではない。その地を治める職であるから、その地の民の世話をするのは当然である。欠け落ちは叛罪である。取り逃げ・引き負いは贓罪(ぞうざい)である。斬罪は律の規定とは異なるが、そもそも律は郡県を治めるためのもの。当代は封建の世で武家が治めるのだから、斬罪の規定は尤もである。平安時代に流行った「人を殺すは不仁である」という理屈が今また流行り、さらに武家にあるまじき利勘の詮議を第一とするようになったため、給金の返済を以て欠け落ちの罪が消えるといった法の乱れにより、今では欠け落ちすることが奉公人の常のような風潮にあり、これを防ぐには厳罰によらなければならない。今の地頭や代官も、自分の知行所・支配所より悪事の露見するのを外聞が悪いということで、奉公人が出ることを関知しない有様である。しかし、いくら関知しないようにしても、知行所・支配所の百姓であることに違いはない。その者がいまどこに居るかを知らないというのは、己れの職分を忘れた行為である。一方で、意地でも形式主義を通そうとして自分の知行所・支配所と他の者の知行所・支配所と競争しようとするあまり、城下での公法を二の次とし、上を敬わない風潮が強い。これもなくなるようにしたいものである。その奉公人が当地で出生した者ならば、町方でも武家でもその実家より証文を出し、身元が確かなものにする。地頭・代官も実家も、公法を重んじて固く守り、粗末に取り扱ってはならない。


[注解]我が国で記録が明確な範囲では、平安時代の弘仁元年(810)から保元元年(1156)まで、公権力による死刑は行われなかった。古い時代ほどどの国や地域でも権力者は法があってもそれを恣意的に濫用し、反体制派や対立する民族、宗教関係者、そして犯罪者に対して容赦なかった。そんな中、我が国では実に300年以上も権力者たちが死刑をしなかったのは歴史の上で特筆大書すべきことです。現政権は神話時代および明治時代に戻そうとしているようですが、そのように狭い特定の範囲のみをよしとし、各時代の良い所、反省すべき所を総合的に判断する姿勢を取らない(さらには歴史を都合よく解釈し、ものによっては捻じ曲げようとする)のはいかがなものかと思われます。保元元年、保元の乱の時に源為義らを処刑して死刑が復活。「死罪をおこなえば海内(かいだい)に謀叛の者絶えず」といった批判が保元物語・平治物語・平家物語などにあるように、死刑は決して抑止効果などないばかりか、却って謀叛や犯罪が続く、或いは増えることになるといった懸念が当時からなされていた。今も死刑の是非の議論で死刑の効果についていろいろ言われていますが、徂徠は積極派で、但し、法を整備し、役人の法令順守をしっかりさせることが先決。それでも法を破る者がいれば、主人を裏切るような者は厳罰やむなしという考えでした。徂徠が本書を執筆した吉宗の時代は連座制が縮小され、拷問(狭義の)も廃止、のこぎり挽きや火刑といった残虐な処刑も回避するといった態度で、綱吉の時から幕閣に関係した徂徠にとっては、吉宗の時代が前進というよりは退歩に思えたようです。どれだけ聡明で進歩的な人でも、その時代からなかなか抜け出せるものではないわけです。

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