政談12

【荻生徂徠『政談』】12

(承前) とは言うものの、このように武家屋敷を配置し直して頭までを一所に置くことは大変で、すぐにできることではない。せめて一町ごとに肝煎を立てておき、諸事を役儀に関係なく取り扱えるようにしたい。「郷里は和睦す」るをよしとする。今のように役儀にこだわるようだと、博奕や三笠附(みかさづけ)等の詮議もできないし、跡目相続や養子に偽りがあっても吟味もできず、身持ち・家持ちが悪い者かどうかもわからない。身分が低い武家では主人が留守だと人が少なく、火災や盗賊、喧嘩が発生しても鎮められる者がなく、困った状況であるる


[注解]●「郷里は和睦す」 明(ミン)の太祖洪武帝が1388年に人民を教化するための告諭「六諭(りくゆ)」を発布。これを明末清(シン)初の范コウ(金へんに宏)という学者が解説した『六諭衍義』(りくゆえんぎ)を将軍吉宗が気に入り、これを普及すべく徂徠に訓点をつけるように命じた。その中の一節で、同郷の者同士は互いに仲良くすべし、ということ。 ●三笠附 博奕の一つで、俳句の頭の五文字を示し、下の七・五の文句を三組当てさせるもの。一見、句会のようであり、知的な感じもするので、それが博奕であるということを知らない者を欺くのに便利だった。

武家屋敷は守りが厳重で、人の出入りも厳しくチェックされているはずが、実際にはかなりいいかげんで、外部の者が侵入しづらいのは確かですが、内部の者に関しては同じ家中の仲間ということから互いに気を許す。このため、下級の者の部屋が賭場と化し、博奕がよく行われた。これを町奉行が察知しても、屋敷は治外法権のため立ち入ることすらできない。仮に、現場の捜査が許されても、大名と奉行所役人では身分が違いすぎるため、あれこれと細かく詮議することはできないし、遠慮もある。このため、徂徠は『六諭衍義』の一節を引いて、一つの町内の事はみな仲間、一家のようなものだから、身分に関係なく肝煎の権限で調べられるようにすべきと提案しています。明治時代には明治天皇の教育勅語が国民を国家の一員たらしむべく利用されましたが、吉宗は太祖の告諭をあくまで個人個人の徳を高め磨くものとして利用しました。愚民政策とは真逆の、国民のレベルを上げようとしたわけです。吉宗という人は、悪事に走る者はそれが悪ということが分からないのだから、これを教える必要がある、という立場でした。つまり、教化教導、教育の必要性を感じていた。そこで、今まではご法度だった蘭書を解禁し、庶民にも読み書きを奨励し、それまでの幕府のやり方とは違ったことを次々と断行しました。拷問や残虐な刑罰の廃止もその一環で、かかる悪人を出したのも教育が不十分だったからで、何もわからない者を罰することは為政者の恥だとして、強権を以て威嚇するやり方を否定した。それに感銘を受けた徂徠は、この将軍なら分かってくださるという思いから、大部の『政談』それに『太平策』(これについては別人説や偽作説あり)をわざわざ吉宗のために著わした次第です。

 今、カジノの設置を掲げる政治家がいますが、江戸幕府は賭博を禁止していました。理由は明快で、射幸心を煽り、正業を放棄し、犯罪が増加するため、です。いろんな意見、考えがあるでしょうが、政治は大所、高所から物事のあり様を示すもので、あれもいい、これもいい、これは問題ない、外国でもやっている、という態度では、逆に無責任です。

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過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。