政談11

【荻生徂徠『政談』】11

(承前) 総じて武家屋敷も、元来一組を一町ごとに置きたいものである。大御番(おおごばん)は十二組で、番町(ばんちょう)一番町より六番町に各表裏の二組ずつある。かつては飯田町の上に土手があった。与力と同心も一町に一組ずつ配置されていたが、役抜け・御番入り・小普請(こぶしん)入りといった異動がなされるようになってから混乱し、特に権威ある立場の人は屋敷を選り取りするため、今ではこの原則が乱れて同じ組があちこちに分散した状態である。このため、別の役、別の組の人が隣同士となり、互いに情報交換ができないために武家の人柄や内部の様子を知ることができない。一町内の事は、家内の微細な事まで何事も分からないことはないが、別の役、別の組の人だと各屋敷とも自分勝手となり、わがままになって、本来の任務である取締りをせず、埒が明かなくなったのも当然である。ことに身分の軽い同心の一組を牛込・本郷・本所などに分散させてしまったために、その者がふだん何をしているか同僚も知らない有様であるから、これでは悪事を働いても知りようがない。願うことならば、古法の通り御番衆も与力・同心も一組を一所に置き、その頭も同じ所に置いて、役抜けや番入りなど異動の時は配下の者の人柄から何もかも把握するようにすれば、盗賊奉行などの組の者の悪事がわからないということはなくなる。このように組全体を構築し管理できる者でなければ頭としてふさわしくはないし、誰を頭にしても念を入れて整えた組でなければ任せることはできない。


[注解]●大御番 幕府の役職名は敬語がつくので、正しくは大番。トップは大番頭(おおばんがしら)、その次が大番組頭。江戸城の特に二の丸、西の丸の警備をする。もともとは幕府の出先機関である京都二条城および大坂城の警護のための職。 ●小普請 幕臣である旗本が辞任や罷免、家督相続直後で無役の者などが入れられる有名無実の職。元来は小規模の普請(土木、建築)を担当する職だったが、無役の下級旗本の救済措置としての性格を持つようになった。小普請入りというのはいわば左遷のことで名誉なことではないが、これから本格的に働く駆け出しの者もここからスタートするため、今のように「無職・無役」という実も蓋もない境遇や名称とは違い、これを肩書にできたし、最低限の収入も保証されたから、人間らしい生き方はできた。なお、町奉行ら3000石以上の大身の旗本らは小普請ではなく寄合(よりあい)入りした。現在の感覚では、左遷されたり職のない公務員を身分や金銭的に保証するのは絶対に許されないことですが、当時は武家に限らず、とにかく浪人や無宿人(住所不定無職)を出さないように、最低限の職と住まいは確保してやるといった鰥寡孤独を救うといった幕府の根本政策が行き届いていたことから、小普請組といった待機場所を設け、暮らしだけは成り立つようにさせた。これをどこまで理解するかどうかは各人の考え方にかかる。

 盗賊・悪人の情報を得るには、連絡を密にし、情報を共有する必要がある。今のようにさまざまな通信手段があれば、同じ部署の者たちの住居が離れていても不便ではないが、当時のように文書のやりとりしかなかった状況では、住まいを集約させるのが唯一最良の方法。当初はそのとおりに配置させたものの、次第に官僚制が支配するようになり、護衛を担当する番士が生涯番士という鉄則が失せて、全く別の職に異動しながら家格に応じた昇進をするといった仕組みが当たり前となった。その結果、隣にいた同僚は異動により別の所に引っ越し、異動してきた者が隣に住むことになったものの別の組のために情報交換が許されなかったりして、どこそこで押し込み(強盗)が発生したとなっても、なかなかその情報が得られず、奉行所でも各所からの情報がすぐに集まらないといった状態になった。徂徠はこの事態を憂慮して、昔のように同じ部署の者たちは一カ所に集約させることと、管理する立場の者が責任感ある者を置くことを説いています。人材登用については後段で詳しく述べられていますが、『政談』における白眉の部分とされており、徂徠は家格・門閥にとらわれず、有能な士は抜擢すべきことを繰り返し述べています。上の者はお飾りではないし、偉そうなことを言って威張るだけで却って組織の士気を低下させる長は迷惑なだけです。

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