政談8
【荻生徂徠『政談』】8
(承前) 都の外れ田舎との境界に取り付けるのは、元来、堀を掘り、土手を築くのは武備の一つだが、それほどのものではなくとも、木戸を付けて境界にするためである。今まで境界になるものを設置してこなかったため、どこまでが江戸の府内で、どこからが田舎といったことが明確ではなく、民が気ままに家を建て続けた結果、江戸は年々広くなり、誰が許したわけでもなく、奉行や役人も一人としてこの事に留意しなかったために、いつの間にか北は千住から南は品川まで家続きになってしまった。これまた古法を知らないために誤ったものである。都鄙の境界がないと農民は次第に商売をするようになり、生産をする者が減るために国が貧しくなる。農民変じて商人となる現象は、国政の上では昔より大いに嫌うことで、重要な事である。つづく
[注解]●都鄙(とひ) 都会と田舎。鄙は今は「辺鄙な土地」といったやや蔑視的な使われ方がされるが、もとは都の対義語。漢字が作られた中国では、都会はすべて城郭、城壁で囲まれ、その外を鄙と言った。城外、郊外。「卑」と通じることから、いやしい、下劣、野卑といった悪い意味がつくようになり、その影響から辺鄙という言葉も人があまり住まない遅れた土地といった言い方がされるようになったが、これはよくない。
徂徠は中国の城壁ほどではなくとも、もともと都は堀や土塁で囲み、周辺から隔絶した姿にさせてきたことをもとに、江戸の街も境界を明確に定め、外から次々と農民らが集まってきて商人(大店の主人のような本格的なものではなく、小商いや職人など)が増えて江戸が膨張することをただちに止めるべきことを説いています。江戸の境界は明確ではなく、幕府が範囲を示した朱引図(しゅびきず)が1818年(文政元年)8月に今の閣議決定のようにして示されたのが初めてで、つまり幕末近くになってようやく江戸の区域が公式に定められ、それ以前は漠然としたものでした。徂徠が進言した吉宗の時代も朱引図よりはるか以前のことで、膨張を続けている最中です。
朱引図。朱色の線で囲んだ範囲が江戸。御府内と呼ばれた所です。黒線(墨引き)の範囲は江戸町奉行の管轄範囲。その外側は、寺社の領地は寺社奉行、それ以外は幕府直轄地で勘定奉行の管轄。大名屋敷は治外法権で、屋敷内はその藩の行政、司法にゆだねられる。なお、目黒付近だけは江戸の外でありながら江戸町奉行の管轄でした。
朱引図の範囲(大江戸)は現在の地名にあてはめると、東は平井、亀戸周辺、西は代々木、角筈(つのはず)周辺、南は品川周辺、北は千住・板橋周辺まで。現在の行政区画では千代田区、中央区、港区、文京区、台東区のほぼ全域と、江東区(亀戸まで)、墨田区(木下、墨田村まで)、荒川区(千住まで)、北区(滝野川村まで)、豊島区、板橋区(板橋村まで)、渋谷区(代々木村まで)、新宿区(角筈村、戸塚村まで)、品川区、(南品川宿まで)。(カッコ)内は当時の地名。つづく
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