政談4

【荻生徂徠『政談』】4

(承前)盗賊・火付(放火)は盗賊奉行火方の役目だが、とても広い江戸中を、僅か一組や二組の与力・同心では対応できるものではない。中山勘解由(かげゆ)などは厳しい男で、捕らえると手加減もせず殺したため、盗賊も出なくなった。これは家康公が関東に御入国された当時のやり方で、武威を以て悪人を脅し、悪人が恐れをなして静かになるという方法のため、もとより盗賊を発生させないようにするものではない。その余風がまだ残っている。

 しかし、その後はお上の御政務のあり方も次第に変わり、奉行にも勘解由のような人物は減り、何事も詳細に念を入れ、刑罰も軽くなった。であるからこそ、担当者が少ないと江戸中を充分押さえることはできない。


[注解]家康が幕府を江戸に置いてからしばらくはまだ都市といえる状態ではなく、徂徠が言うような荒々しいやり方をする以前に、犯罪そのものがまだ少なかった。犯罪が横行するようになったのは3代家光の頃からで、家光は派手好き、濫費グセがあり、その影響から江戸の街も大名屋敷は華美を競い、なんでもカネをかけるのが当たり前になった。参勤交代が制度化されたのも家光の時で、江戸に滞在する武士が増え、職人、商人たちも地方から集まり、一時は男女の比率が8対2になったといわれるほど江戸の街は男だらけとなった。このため殺伐として、女性と見るやかどわかし、手籠めにするのは当たり前。無法地帯のような様相を呈しました。押し込み(強盗)や火付も多発。これを封じ込めるために盗賊改(とうぞくあらため)を1665年(寛文5年)に設置、遅れて火付改を1683年(天和3年)に設置。放火に比べて強盗の数が多かったために、まず強盗(殺人を伴うもの多し)に対処するのが急務だったわけです。

 設置が別、役名も別でわかるように、当初は全く別々のもので、事件が発生したら対応する性質から、先手頭(さきてがしら)など武官の兼職とし、事件があれば出動しました。集団での強盗は浪人などが武装して荒々しいため、本来の管轄である町奉行は文官にとても対応できず、かといってふだんは必要のない部署のため、武官兼職としたものです。

 火盗改といえば鬼平のイメージが強いですが、時代劇、時代小説の通例として、これそのものが事実だったわけではありません。上述の中山勘解由の要素を入れてはいるものの、時代が下る鬼平の頃は幕府の行政は完全に法令にもとづいたものとなっており、「手に余らば斬り捨ててもかまわん」とはならなかった。捕り物をする同心たちは帯刀してはいるものの刀を使ってはならず、あくまで十手で取り押さえる。十手だけでは確保は難しいため、刺又(さすまた。刺股とも。写真の右のが刺又)やハシゴ(横にして2人で持ち、これを数組で犯人を挟み撃ちにする)なども使った。あくまで取り押さえるのが火盗改で、その後は法によって取り調べをし、動機や背後関係、仲間、余罪などを調べた上で、極刑の場合は老中に伺いを立て、将軍の決裁を経て執行されました。なので、火盗改の一存でその場で容赦なく斬り捨てたり痛み責め(拷問)にかけることは認められていなかった。しかし、初期の頃は荒々しいのが多かったため、キリシタン担当の長崎奉行の初期の者(さまざまな拷問をやり、責め潰した)同様、長く悪人らに恐れられる存在となったものです。

 1699年(元禄12年)、盗賊改と火付改は一度廃止されました。世の中がだいぶ平穏となり、家光の頃のようなならず者の横行も見られなくなったこと、5代綱吉が法治主義者で学者肌で、武張ったことが嫌いだったことも影響しています。ところが3年後に赤穂事件が発生、このために盗賊改を復活させ、世の中がゼニカネ中心になった影響から急激に増えた賭博に対応する博打改が加えられた。翌年には火付改が復活。8代吉宗の1718年(享保3年)、盗賊改と火付改は「火付盗賊改」に一本化されて先手頭の加役(兼任)となりました。これを受けて、まだ手ぬるいとして徂徠先生は数を増員すべきことを説いた。幕末には兼任制から独立した職に。つづく

ちなみに、消防署の地図記号はこの刺又をかたどったものです。


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