政談1

【荻生徂徠『政談』】1

 今回より江戸時代中期の儒学者にして政治家(職業上、あるいは身分上では政治家ではないが、いかに政治家としての性格が強いかが本書でわかる)の荻生徂徠(おぎゅうそらい)晩年の著作、『政談』を拙訳にて紹介します。以前、少し取り上げましたが、今回より改めて冒頭から読み進めてゆきます。

 『政談』は8代将軍吉宗に上呈されたもので、幕藩体制が弛緩している根本的な原因を明らかにし、その対策を記したものです。

荻生徂徠(寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日))は、名は双松(なべまつ)、字(あざな)・実名は「茂卿」で、実名としては「しげのり」、字としては「もけい」と読む。通称は総右衛門。徂徠(「徂來」と表記するものあり)、蘐園(けんえん)と号した。本姓は物部氏で、「物茂卿」(ぶつもけい)とも号した。字があったり、物茂卿といった中国風の名前を好んだのは、当時における日本にとっての先進国であり手本であった中国に対して徂徠は大変に崇敬していたからで、引っ越しをして少し西に移動しただけで、「唐土(とうど、もろこし)に近くなった」と喜んだほどです。古来より漢文は訓読で読み、同時に解釈するのが当たり前となり、訓読が我が国の文語として確立されたほど。しかし、徂徠は漢文をそのまま上から下へ中国語で読み(これは今も京都学派が継承している)、訓読を否定はしておらず、訓点をつけた作品もあり、更には将軍から委嘱されて訓点を施す作業もしているほどですが、持論としては、漢文は中国語で読み、解するものだとしています。大変な学力です。

余談ですが、敗戦までは学者による天皇へのご進講には必ず漢籍(漢学)があり、同時にこれが帝王学の教材ともなっていました。講義をする学者は、天皇に対しては「荻生徂徠が申しますには」と号で説明してはならず、「荻生双松(なべまつ)が」と名を以て説明する決まりでした。これは、元来、号というのはある技芸の世界での通称であり、外部の人に対しては失礼であること、字(あざな)と同じく、同等もしくは目下に対して使い、目上には常に本名を使うといったならわしにもとづいているからです。今はこういう規則もうるさく言われなくなったようで、両陛下が展覧会へ行かれた時でも、学芸員らはその作者を世間になじみのある雅号や筆名で説明しているようです。戦前であれば夏目漱石ではなく夏目金之助、森鴎外ではなく森林太郎、と説明したわけです。

徂徠といえば忠臣蔵で有名で、しかも悪役的な存在です。これは、討ち入りを果たした赤穂浪士の処分について、幕閣さらには将軍自身が迷っていた時に、学者たちの意見を聞こうということになり、室鳩巣(むろきゅうそう)らは武士の鑑であり、ただちにご赦免とすべき、もしこのような者たちを処罰すれば、今後ご政道は立ち行かなくなる、と宥恕論を述べたのに対し、徂徠は、「彼らは仇討ち赦免状の交付を受けておらず(正当な手続きを経ていない)、徒党を組み、主君の仇を討ったというが、これは単なる私闘であり、そもそも浅野侯を罰したのは幕府で吉良ではない、敵(かたき)でもない吉良を討つのは全く道理にかなっていない」として厳罰にすべきことを説いた。5代綱吉の当時の徂徠はまだ新進気鋭の学者で、しかも講談にもなったほど有名ですが、長く民間にあって苦労した人。その日の食べ物にさえ困るほど零落した身が将軍のお声がかりで幕府に招聘され、大抜擢。ひがみ、やっかみが当然すごかった。本当は庶民派で、庶民ウケする人のはずが、赤穂浪士たちを処刑すべしと言ったこの一事で忠臣蔵では憎まれ役となってしまった。

世間の評価がいかにアテにならないか、実像はどんな人か、『政談』を読むと目の当たりにするごとくよく分かります。『政談』は岩波文庫では原文すべてに校注のついたものが、講談社学術文庫では部分訳のついたものが入手しやすいです。ここでは前者を底本とします。つづく


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