司馬江漢随筆・続19

【江戸時代の随筆・司馬江漢】続19

 唐橋世済(からはしせいさい)という儒者が下谷竹町という所にいる。我が近隣に宗元(そうげん)という医者があり、世済はここに来ては書を読んだり講義をしたりしている。私もそこで学んでいる。

 先生が題を出して詩を作らせる。詩を作り、署名をする際、唐風でなければ風雅ではないゆえ、名は峻、姓は司馬、字(あざな)は君嶽(くんがく)、号は江漢とした。江漢とは、我が先祖は紀州の人で、紀州には日高川、紀の川という大河があり、洋々たる江漢は南の紀なりということから号を江漢とした。

 その後、如来先生にお会いした時に、「中国に江水(こうすい)、漢水(かんすい。旧来は「かんずい」と濁る読み習わしがあったが、今はこだわらない人が多くなり、「かんすい」が一般的)の二つの大河があるが、それを合わせた号とはなあ」と、笑われてしまった。しかし、今は江漢という号が人々に知られるようになったので、でたらめな号だがこのまま用いている。


[注解]司馬江漢の号の由来、意味を説明した段。西洋を崇拝した江漢も時の人。号は伝統的に中国風にした。ちなみに、松尾芭蕉は桃青(とうせい)という号を使っていたことがあり、これは唐の詩人、李白の名をもじったもの。俳人の俳号もまた中国風で、改革を行った正岡子規や夏目漱石といった名でさえなお中国式のものです。それほど知識人たちにおける漢学は重いものでした。

  江漢は江河、つまり大河という意味もあり、司馬江漢は故郷紀州の二つの大きな川にちなんで江漢と称したところ、漢学の先生から「江漢」というのは江水と漢水のことを言うと聞かされ、しまった、と思ったものの時すでに遅し。司馬江漢の名は広く知れ渡り、改名すると世人が分からなくなってしまう。そこで、意味を間違えてつけた号をそのまま使い続けることにしたという話。葛飾北斎は分かっているだけで30回も号を変えており(転居に至っては93回!)、「北斎」もその一つにすぎません。北斎のように名前に執着しない人もいますが、司馬江漢は何事に対してもこだわりが強く、変えるのをよしとしない人もいるわけです。

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