司馬江漢随筆・続4
【江戸時代の随筆・司馬江漢】4
わが日本の人は、究理を好まず、風流文雅といっては文章を飾り、偽って真実を述べない。あたかも婦女の情のようである。婦女は物事に惑わされやすく、目先の偽りを信じて道理に暗い。
昔、欽明帝の時、壬申13年、百済より初めて仏像と経論が渡来した。これを信ずる者としては蘇我大臣、稲目宿祢ら。信用しない者には物部大連尾輿、中臣連鎌子がいた。このため、帝は仏像と経巻を稲目に賜わった。稲目は大臣と謀り、向原の家を払い清めて寺とした。これを向原寺(こうげんじ)と称す。わが国仏法の起源、僧侶の始祖である。
この年、天下に疫病が流行し、多くの人が死んだ。神国異域の外道の教えを信じたからだとし、仏像経巻を川に流し、寺院堂塔を焼滅させた。
29年経ち、重ねて仏経及び禅・律・仏工師・寺匠を献上した。時に敏達丁酉6年のこと。同巳亥8年、新羅より釈迦金像が贈られた。これにより蘇我馬子らはますます仏法を信仰し、堂塔を建立した。しかし、なおもしばしば疫病が流行した。
乙巳14年3月、帝に奏上し、帝は守屋に仏法を断つように詔した。仏塔は切り倒され、仏像や仏殿は焼き払われ、その他のものは難波の堀江に棄てられた。
同年夏6月、馬子は再び奏上して仏法を再興させた。
8月、天皇が崩御。
9月、豊日の皇子が天皇に即位。
翌丙午春正月は用明帝の元年である。
しかし、翌年夏4月、天皇は病で崩御された。ここにおいて守屋は穴穂を帝にしようとしたが、馬子が推古に奏上のうえ穴穂を殺害、諸皇子も群臣と謀って守屋を殺した。
時に聖徳太子はその軍中にいた。太子といえば聖賢の人と崇められているが、馬子は必ずしも義兵ではなく、守屋も必ずしも奸賊ではない。守屋が仏を廃したのは、我が国が神国だからである。穴穂は皇子で推古は女皇子。馬子が穴穂を殺して推古を擁立したのは、主人たる推古が仏法を信じていたからである。
時に太子は摂政であったが、ほどなくして馬子は崇峻帝を殺害した。馬子は主君を弑する大悪人、太子はその大悪人と共謀した。どうしてこれを聖賢の人といえようか。
仏法は国を治めるために設けられたのではない。今に至るまで政道になんら益はないし、破ることもできない。上(かみ)が世事や道理に暗いと、下(しも)が乱れることはこの出来事によっても明らかである。
[注解]先日まで歴代天皇をすべて見て来、天皇が「神」とされた明治以降とは違い、昔は天皇でも殺されたり島流しにされたり、上皇が天皇を即位させたり退位させたりといったことがあり、しまいには分裂して二つの朝廷が出現したりと、世俗そのものでした。欽明帝の頃は朝鮮半島との関係が深く、帝は仏法により徳を得て、これを諸国にもたらすように祈願。群臣に仏教崇拝の是非を尋ねたのがきっかけで群臣の意見の対立から群臣同士が争うようになり、仏教のせいで疫病が流行ったという言いがかり(デマ)も起こり、デマと証明することもできずに一度は廃止。しかし、仏教によって全国を統治できるとみた馬子らは再度仏教立国をめざして仏像や経文を整備した。それでも疫病が流行り、帝も崩御。賛成派と反対派の対立は激化し、崇峻帝暗殺にまで及んだ。ここに関係していたのが聖徳太子。太子といえばすぐに信仰、崇敬の対象となり、各地にその遺徳を偲ぶ遺跡や伝承があまたありますが、江漢は歴史を冷静に分析し、是非を明らかにしている。江戸時代の人にとっても古事記の世界は遠い昔のこと。それだけに、遠い出来事でも今に通じることは教訓とすべきといった姿勢です。もちろん、古事記に書かれていることがすべて事実といった一部の者たちのような妄信はしていません。そもそも、江戸時代の人は天皇を神だなどと思っていないのですから。現代よりよほど現実的、常識的です。
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