司馬江漢随筆・続2
【江戸時代の随筆・司馬江漢】
我々が使用している文字はみな唐(から)の字である。崇めている聖賢もみな唐の人である。であるから、唐の書籍(漢文)が読めなければ理非がわからない。何が書いてあるか意味を理解しようとするうちに、次第に文章のおもしろさに惹かれ、みずから書きつけるのもまた唐の文章となるという。
これは心得違いというものだ。人に依拠して書くことを嫌い、唐の文章が読めない人の中に、立派な人になろうと志を立てる人がいる。わざわざ唐の言葉で書く必要はない。和語で充分だ。
大槻玄沢(おおつきげんたく)という人は仙台侯に仕える外科医で、蘭学者として名がある。ある日、タバコの起源を記した書物を著わしたが、漢文で書かれた。タバコはもともと愚人卑賤の者が好むものだから、この書物も世間から嘲笑された。
また、京都東森の隠士、無外子円通(むがいしえんつう)という出家は、「仏国暦象編」(ぶっこくれきしょうへん)という書を著わした。この書は須弥山(しゅみせん)が正しく、地は丸い地球というのはでたらめだということから、いろいろな書物を引用しているが、これも漢文である。
このように一般には読めない漢文でわざわざ書くのは脅す行為である。文学者にも理に疎い者がままある。
[注解]〇大槻 玄沢(宝暦7年9月28日(1757年11月9日)- 文政10年3月30日(1827年4月25日))、一関藩出身の江戸時代後期の蘭学者。諱は茂質(しげかた)、字は子煥(しかん)。出身地の磐井(いわい)から磐水(ばんすい)と号す。『解体新書』の翻訳で有名な杉田玄白・前野良沢の弟子。「玄沢」は、師である2人から一文字ずつもらってつけた通り名。 ○無外子円通(宝暦4年(1754年) - 天保5年9月4日(1834年10月6日))、江戸時代後期の天台宗の僧。字は珂月。号は無外子・普門。因幡国出身。初め日蓮宗の僧であったが天台宗に改宗し、比叡山に入って慧澄・豪潮などに学んだ。当時は儒学者・国学者の間から仏教批判が起こり、円通は仏教の衰退は天文地理の研究から始まると考え、インドの暦学を修学した。その結果、1810年(文化7年)に須弥山宇宙論による『仏国暦象編』5巻を著している。これに対し伊能忠敬は『仏国暦象編斥妄』で反論し、同じく大坂の武田真元も大坂訪問中の円通に論戦を挑んでこれを論破している。初め山城国智積院に住していたが、その後は江戸増上寺恵照院に住した。
江戸時代は俳句や戯作など和文が主流のように思われがちですが、知識階級にあっては漢文がすべてであり、公文書もまた漢文ないしは漢文体(訓読文体含む)が鉄則でした。庶民も寺子屋で論語その他を学び、漢文に触れはするものの、あくまで初学にすぎず、しかも師匠の読みをそのまま復唱して覚えるだけで、漢文を自分で読みこなし、更に漢詩漢文を書けるようにするには、本格的に習うか独学でも多くの書物や作品に触れる必要があり、忙しくて時間的な余裕がない庶民の大半は漢文は縁のないものとして一生を終えた。現代も受験のために漢文があるような状態で、仕方なく学ぶものの、合格したあとはもはや関係なしとしてキレイさっぱり忘れる。現代は英語力万能ということも、江戸時代以前のように為政者や知識階級は漢文が必須だった時代とは違い、漢文はお呼びではなくなっている。それはともかく、大衆に知らせるべき大事なことをわざわざ大衆に読めない表記にしたり、でたらめだと論駁された説をあたかも権威あるかのように漢文で記して煙に巻くようなやり方を司馬江漢は批判している。漢文そのものを批判しているわけではないことに注意。なお、現代俳句を第二芸術として徹底的に批判した京大の故・桑原武夫は「漢文必修などと」という作品で教育における漢文を徹底的に否定、漢文教師が食べるためにあると猛批判しています。が、これも漢文そのものを全否定しているわけではなく、氏は専門はフランス文学でありながら、漢文の素養は玄人はだしであり(そもそも家が漢学者の家系。物理学の湯川秀樹も実家の小川家は漢学であり、兄と弟は漢学者)、よく学び熟知しているからこそ、その得失を理解して、一般向けには一般にわかりやすい伝え方をし、インテリぶるのはよくないと言っているわけです。
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