身分制度(9)
【身分制度】9
同じ武士でも家格がものを言う社会のため、家格によって最終的な地位も決まってしまう。そのため、敢て惣領(長男)を家格の高い他家へ養子にやるといったこともよく行われました。形の上では自分の家の家格は何ら変わりがないわけですが、血筋が家格の高いほうに流れることになり、親類関係も出来るので、あまり深くはこだわらなかった。人がいなければ家もないわけですから。家がすべてとはいっても、継ぐ者の有無が大きい。
それから、これも困窮ゆえの事ですが、婚姻にしろ養子にしろ、他家へ移る際には必ず持参金をつけることになっていた。そのため、持参金欲しさに養子を貰うといったことも次第に多くなり、ある者が養子に行き、そこから更に別の家に養子に行く、あるいは実家に戻るといったことも珍しくなくなったほどです。いずれの場合も持参金は先方が貰ったままでよい。こうなると養子詐欺と同じですが、それほど武士も貧しかったということです。
さすがにこれは武士としてみっともない所業であるから、吉宗の享保17年(1732)に、重ねて養子に行くのは許さぬということになった。この禁令も次の代になると有名無実となり、また盛んに行われるようになりました。
浪人について。浪人は厳格な身分制度からはじかれた存在です。浪人はもともとは武士ですが、戦国時代にすでに浪人で、その身軽さゆえに呼びかけに応じて豊臣、徳川それぞれに就いた者(あくまで臨時雇い。いずれは何十万石の大名となるという約束を交わした者もいたものの、こんなのは空手形同然)およびその子孫もいれば、幕府創設以降、罪により、あるいは藩取り潰しにより浪人になってしまった者がいて、次第に後者が増えだした。当初は、武士の身分を剥奪すればいいといった程度の考えだったものの、浪人にとっては、自分は先祖代々れっきとした何々家の武士である、といった誇りがあるから、無職の庶民にされてもそういう現実を認めようとはしない。中にはこだわりを捨てて農民や商人として再出発し、しっかり生計を立てることができたケースもあるものの、高い身分にいた人ほど、ある日突然それを奪われると、まるで抜け殻のような状態となり、世の中を恨み、人生を悲観し、引き籠ったり自暴自棄になったりするものです。これは時代を超えて同じこと。だから、こういう人には相応のケアが必要ですが、幕府はそんなことは考えもつかなかった。
寛永14年(1637)、天草の乱が勃発。キリシタン大名で斬首された小西行長の家臣ら、武将で秀頼とともに自害した大野治長の家来ら、豊臣方の浪人たちがこの乱に大挙参加していたこと、続いて由井正雪の乱(慶安事件)も発生し、危機感を持った幕府は浪人狩りを断行。3代将軍の頃まではなにかと乱暴で殺伐としたことが政権の確立と維持の上で当然という考えだったものの、これではなんの解決にもならない。かといって、ひとたび浪人とした者を武士に戻すと、浪人たちは一斉に武士に戻すよう要求し、平和な世では幕府も各藩ももはや雇う必要もなければ余裕もない。時代劇では、よく仕官の口をエサに悪者の高級武士らが手下に命じて浪人に人殺しなどをさせる設定が出ますが、今のように毎年、公務員試験があり採用される時代ではなく、空きはほとんどできないし、できても縁故によりさっさと埋めてしまうから、新規の仕官は夢のまた夢。それほど浪人になってしまうと、武士にこだわりがある者ほど人生八方塞がり状態になってしまった。つづく
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