身分制度(7)

【身分制度】7

 農民には農民の、商人には商人のそれぞれ身分がある。当時の言い方でここでも百姓と言わせていただきますが、百姓にも上は庄屋(名主)から百姓代、本百姓(ここまでが一人前の農民)、この下に小作人があり、小作人の中にも身分があり、末端は被官(名子、門屋、その他いろいろな呼称あり。蔑視の対象だったから、それだけいろんな呼び名がされた。もともと被官は役人の身分の名。江戸時代には下男下女のことを指す広い意味で使われた)まで。商人も主人、番頭、手代、丁稚(でっち)といった階級があり、これは今の会社組織の序列よりもっと重いものでした。

 このように、社会全体が細部にわたって身分がすべてを決定づけるタテ社会となったものの、現実はというと、厳格にしようとすればするほどどうにもならない事態が増え、タテマエと現実がどんどん乖離していった。

 皮肉なことに、身分制度を強制する側の武家階級自身が身分制度によって立ち行かなくなる事態に苦しめられた。それは「家」です。

 武家といわれるように、武士の社会は家がすべて。お家が安泰であってこそ、主君も家臣も安穏としていられる。主君には主君の、家臣にはそれぞれ家臣の家があるとともに、藩全体もまた家となっている。家が揺らぐとすべてが揺らぐ。家が揺らぐ原因は、戦乱の世であれば外敵によるものが第一ですが、泰平の世では家の中のことが原因となる。家の中の原因は、藩内部での対立といった人間関係によるものもありましたが(お家騒動)、それ以上に多かったのが世継ぎ問題。なにしろ、世継ぎがなければその家は断絶させるという定めだから、なんとしても世継ぎを絶やさないようにしなければならない。そのために側室やら妾やら正妻以外の女性ともできるだけ関係を持ち、子を一人でも多く持つようにした。医療技術がまだ未熟だった当時、乳幼児の死亡率が高く、嫡男ご誕生と喜んだのも束の間、はやり病で急死、といったことがよくあり、特に男子は女子に比べて虚弱で死亡率が高い。このため、できるだけ多くの子、それも男子をつくることが家にとっての重大事でした。

 こうなると、タテマエばかり言ってはいられなくなる。初期には認められなかった養子もすぐに認められるようになった。なにしろ将軍家自身が世継ぎがいない状態になったのだから。

 そこで、当主が生前に、もちろん現役のうちに養子を立てて後継ぎとすることを届け出れば許可されるようになった。死後の届け出は違反。しかし、これも次第にいいかげんになり、健康だった当主が頓死するケースが出て、子がなく養子はいたもののまだ家督相続の届け出をしていないといった例も出てきた。そこで、目付の項で紹介したように、幕府の目付が直接見ないように屏風を立てて、その向こうで遺体の当主をあたかも生きているようにして「誰それを以て後嗣(こうし)とする」と家臣が声色を使って言い、それを聞いた目付が「確かに承った。只今、養子家督の件、滞りなく相済み申し候」などと言って許可するようになった。現代では、ちょっとでも書類の不備があったりしただけで却下されたり門前払いされる世の中ですが、行政が少しでも多く切ろう切ろうとすれば対象となる人、恩恵を受けられる人が少なくなるわけで、少しでも多く救済しようとすれば、「こんないいかげんなことは許されない」と反論する人もいるでしょうが、実際の運用では緩くなるものです。そして、これが逆に江戸時代をあれほど長く続かせた理由の一つにもなった次第です。つづく

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