身分制度(5)

【身分制度】5

 庶民に占める農民の割合が圧倒的に多かったので、ここでは農民を庶民として話を進めますが、江戸幕府創業の当時は農民に対して過酷なほど制約、制限を課した。衣食住すべて質素にし(そもそもギリギリの生活を強いられているのだから、贅沢のしようがない)、引っ越し(移動)を禁じ(農村への土着)、常に決められた年貢をきちんと納めることが第一でありすべてであるとされた。こうなると年貢を納める機械です。それだけ農民の人格も意思も認めなかったわけで、武士に対して「生かさぬよう、殺さぬよう」に扱うことを心得とした。これはひどい話ですが、江戸時代は初期こそこのように万事ひどかったものの、むしろ戦争世代がいなくなるにつれて良くも悪くも弛緩していった。特に、代官やその家来たちは農民と直に接することから、よほど偏狭だったり乱暴な者を除くと、農民の暮らしや窮状に理解があり、同情的で、中には農耕具の改良をはじめとして積極的に農民の世界に交わり、協力する者も出るほど、身分を超えた動きもみられるようになっていきました。

 農民よりもむしろ商人に対しての武士の認識はひどく、これは幕末まで連綿と続いたものでした。

 先述のように商人は物流を担い、右から左へ商品を動かして利益を得る人たちです。良いものを着、おいしいものを食べ、汗をかくことなく儲ける。これが武士たちの商人観で、凝り固まっていた。だから身分を農民や職人たちより下に置いたとされていますが、「士農工商」は儒者による区分であり、武士はあくまで武士とそれ以外の庶民たちという割り切り方をしていました。自分たち以外はどちらが上か下かなんて関係がない。でなければ、農民より下であるはずの商人が武家屋敷に出入りし、主人ともなれば座敷に上げてもらうし、身なりも武士と大してかわらないといったことに対する合理的な説明がつきません。商人は武士も相手にするから身なりをはじめ、生活については農民よりも大目に見ているといった説もあるものの、徹底した身分社会では上下の関係とそれぞれの階層の位置づけが重要であり、この部分は許すといった甘さはほころびのもとです。なので、農と商、いずれが上か下か、ではなく、それぞれ別ものとしたほうがよいようです。

 初期の頃は楽して儲けている、といったものだったのが、あれやこれやと憎悪ともいえるような感覚となり、日ごろから安逸に耽って不義不正の欲をむさぼることに余念がなく、高価なものや珍奇なものを言葉巧みに売って倹約政策を根底から破壊している者とまで言うようになった。現実にそのような者がいたからですが、次第に大商人と見ればあこぎな手段で不当に利益を得ていると決めつけるまでになった。武士の中には、商人は汚らわしいだの銅臭がするだのといって近寄ることさえ許さなかったり、そろばんを持つと手が汚れるとまで言って、農民に対してはこのような蔑視はしなかったのに、商人に対してはとことん嫌った。かの将軍吉宗はこのような偏見こそなかったものの、吉宗の頃になると商人たちが結託して米価の操作までするようになり、江戸市民だけでなく同じく消費者たる武士まで物価の高騰になやまされたため、大岡越前らに命じて鋭意取締りをしたものの、昔のように弾圧することもできず(それだけ世の中が進歩したわけでもある)、話し合いもして、消費者が困窮すると商人も困ることになると説諭しても、その時だけは言うことを聞くフリをしても、災害などが起こるたびに買い占め、売り惜しみをして常に高く売ろうとした。幕府はそのたびに蔵米を放出したものの、焼け石に水。結局、吉宗の代ですら実効がないまま、ますます商人の力が強くなってしまいました。つづく

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