身分制度(4)
【身分制度】4
当時の刑法では、武士は罪を犯さぬものという大前提があった。武家は武家のしきたりがあり、最高刑は切腹。死罪の一種ですが、切腹は自分で自分の命を終わらせることから名誉刑という認識。これに対して庶民はといえば、磔獄門から打ち首(斬首)、火あぶりから大逆罪などに適用したのこぎり挽きといった壮絶なものから、不義密通などで「非人」の身分に落とした「非人手下」(ひにんてか)や丸坊主にして日本橋に晒し者にするなど屈辱を味わわせるものまでいろいろ用意されていた。罪によってはこれに財産没収や追放などの付加刑もあり、庶民は悪さをする者だからそれに応じて懲らしめなければならぬといったものでした。
但し、武士でも家来は悪さをすることが多いから「武家の家来」という文言を載せてバランスはとった。家来というのは狭義には足軽や中間(ちゅうげん)ら士分に列せられない者らを指し、武士に使われている庶民のこと。家来の身となれば武士と庶民の間のような立場となるので、武士からすれば武士扱いしないものの、庶民からすれば侍(さむらい)側の者として距離を置く。これをよいことに、特に中間、小者(こもの)らは「オレは武士だぞ」「誰それ様の家中だ」という態度で悪態をつく。家中(かちゅう)というのは正式の藩士、主君と直接主従関係を結んでいる直臣(じきしん)のことで、直臣はそれぞれ家来を召し抱えていますが、これを陪臣(ばいしん)といい、陪臣にとっての主人はあくまで直臣のその人です。その下に陪々臣がおり、ここまでが家臣。そして、その下で雑用係として庶民から採用されたのが足軽以下の者たちです。戦国時代およびそれ以前に兵卒として臨時に雇われたのが由来で、平和な江戸時代には不用な存在。多くが解雇され、残った者が改めて足軽として引き続き召し抱えられました。赤穂浪士の寺坂吉右衛門が有名で、足軽ゆえに主君はもちろん、家老ほかの重臣にすら目通りは許されない身です。だから大石が討ち入り当日にひそかに逃したということになっており、これがいつなのか、密命があったのか否か、あったとすればどのようなものか、今もいろいろ言われているわけですが、同志の中にも当初は「足軽ふぜいに参加させるのは反対だ」とあくまで家臣団にこだわった人がいたと言われるのはいかにもありそうなことです。
身分があやふやな足軽・中間も、刑罰では武士の側に入れて庶民とは区別した。軽(かろ)き町人や百姓の身として足軽・中間を侮辱したならば「斬捨て御免」が権利として与えられていました。ちなみにこの斬捨て御免も江戸時代を悪く印象づけるものの一つになっていますが、問答無用で構わず
斬って(斬り殺して)よいということではない。いくらなんでもそんな乱暴なことが法律として許されたなら、日々あちこちで弱者が理由もなく殺される暗黒社会そのものです。今日はムカつくからやってやる、メシがまずかったからやってやる、あの町人のツラガマエが気に入らないからやってやる、といったように際限なくやらかす。しかも、死人に口なしで、あとで理由はどのようにでもつけられる――こういったことを黙許するほど当時は愚かではありません。
万事荒々しかった初期には少しは実際に斬捨てをやった武士もいたようですが、次第に町方の取り締まりも厳しくなり、もし武士が市中で庶民を成敗した場合、町奉行から目付へ事実関係が報告され、武士が幕臣なら評定所で調べ、藩士ならその藩へ通報して調べるよう依頼する。藩の場合は拒否しようと思えばできるものの、幕府に対して非協力的として睨まれるのはよくないから、形の上だけでも本人から聞き取りをする。藩士の場合は調べた結果を報告すればそれで終わり。幕府の場合は体面があるので、丸腰・無抵抗の庶民を斬ったということで更迭、最悪の場合は罷免(士籍剥奪)というケースも。藩士の場合はその藩の評判にかかわるので、体裁を気にする主君や何事も厳格な藩では「藩の面目を毀損した不届きな奴」として始末されることが多かった。つまり、斬捨て御免は法令としてはあっても、それを実行したら相応の覚悟が要るというのが現実でした。
江戸時代も後期になると刀を使える武士はほとんどおらず、しかも絶対に刃向かわないことを知っている町人たちが武士をからかうことがよくあり、武士は必死にこらえてすごすごと立ち去る光景はむしろ哀れな感じもします。つづく
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