身分制度(2)
【身分制度】2
庶人からすれば士は特権階級に違いない。では、士であれば我が世を謳歌できたかといえば、そんなことはない。ごく一部です。
士の中にも身分があり、最上級たる大名にも三家、三卿、国持、准国主、城主、城主格、無城という違いがあった。三家は徳川将軍家の一族で、尾張、紀伊、水戸。三卿は吉宗の時に創設したもので、田安、一橋、清水。諸大名の格は領土・城郭を基準とし、一国以上を有するのが国持。これに準ずるのが准国主。城郭を有するのが城主。これに準ずるのが城主格。城郭を持たないのが無城(陣屋に住んだ)。一般には加賀百万石といったように石高で優劣をつけたがるようですが、老中になるのは石高せいぜい数万石の譜代大名。これは多くは城主以上です。赤穂浅野家も5万3千石の小大名ですが、城郭を持つ城主であり、城主格や無城より上です。
幕臣には旗本と御家人がおり、それぞれ三河以来の譜代とそれ以外の者に分かれ、さらに譜代でも御目見(おめみえ)とそうでない者に区別された。御目見は将軍への目通りが許された者で、官位を賜わったり、扱いが変わります。
たとえば、御目見になると老中宅へ伺う際、大門から玄関へ向かい、取次役が玄関から下りて挨拶申し上げるのに対し、御目見でない者の場合は大門脇のくぐり戸からこそこそと入り、自分で玄関にて挨拶しなければならなかった。一事が万事、これほどの違いがあります。もちろん、御目見になると責任が重くなり、なにをしても「問題ない」と許されるわけではない。むしろ、ちょっとしたことでも身分軽き者なら軽い処罰で許されることでも、御目見の不始末、不祥事となれば、それこそ「上様の顔に泥を塗った」として重いお咎めを受ける。当時は身分が上の者ほど窮屈な世の中でした。今は逆。
さらに、道で御三家の行列に遭えば、御目見だと背中を向けて素知らぬ態度で通過待ちをしてよいものの、御目見でない者は行列が近づくと蹲踞の姿勢をし、駕籠の戸が開いたまま、あるいは自分の所で開いた場合は、雨でぬかるんだ道でもその場で平伏しなければならない。江戸市内は大名行列が多いため、庶民がいちいち土下座をしていたら生活ができないので、庶民は土下座をせずともよいことになっていたものの、大名同士では互いの家格、地位により接し方が厳しく定められていました。
全体からすれば僅かな数の大名でもさまざまな区別、制約があったほどだから、大多数の家臣、陪臣ともなれば家老、頭(かしら)から奉行、代官、末端の足軽に至るまで、軍隊さながらの階級社会でした。普段の付き合いや結婚も同じような家格、身分の者同士で、人より家という考えもこの時代にしっかり植え付けられたものです。また、その方が無難であり、あまり身分違いだと、どうしても下のほうが遠慮し、気づまりだし、上のほうが「もっとざっくばらんに」と言っても、逆に周囲から「もっと重々しくしなければなりませぬ」などと言われるから、最初は身分にこだわらぬと言っても、世間がそれを許さない。個人の自由などおよそ認められぬ世の中でした。庶民のほうが気楽でいいナ、と思うようになるのも当然ですね。つづく
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