町奉行(6)

【町奉行】6

 奉行所の官僚である与力。これの監視も目付が担当しました。目付はあらゆる役人を監視するのですから、特に刑事警察官僚に対しては厳しくなければならない。吟味がいいかげんであったり、逆に威圧、恫喝で過酷な取り調べをしていないかどうか、逐一監視しました。今の警察や司法のほうが密室で、担当官の理非曲直をすべて監視する者がいない方がよほど市民にとっては恐ろしい。代用監獄制度をはじめ、明治以降のほうが過酷なものがあるのが不思議でなりません。

 与力は徒士目付が監視します。目付は奉行。

 いかに町奉行が激務であるか、それは刑事犯の対応でもわかります。

 たとえば、夜の10時に盗賊が同心らによって奉行所に連行されて来る。着物を盗んだ、金を取ったなど。

 犯人は捕まるとまず自身番で同心が取り調べをして調書を作成する。その後、奉行所へ行く。奉行所では捕者が送られてくると、ただちに開廷をし、奉行自身が吟味する決まりです。寝ていてもすぐ起きて、衣服を改めて白洲へ出る。夜遅いから明朝に、と先延ばしは許されません。

 調書に目を通し、奉行が「これに相違ないか」と尋ねる。犯人は「相違ございませぬ」と神妙に答える。自身番で白状したことを奉行所で翻す者はほとんどいません。

 「ほかに何かないか」と奉行が余罪について尋ねる。「ございません」と言うと、奉行は「吟味中入牢(じゅろう)申しつける」と宣告して、牢へ入れます。奉行のこの宣告がないと、どんな犯人でも与力らの一存で牢へ入れてはいけないしきたりです。

 夏などはいいものの、真冬の凍てつく夜でも開廷しなければならず、奉行所も暖房のための火を置いていないため、奉行も大変です。「町奉行は10時から2時まで登城して仕事をする」しか説明がないものが多く見られますが、今の天下り役人じゃあるまいし、昔は身分が高い者ほど責任が重く、仕事量も大変なものでした。

 市中の物価もまた奉行の担当でした。「そば一杯16文」が江戸時代の物価の代表的なものとして有名で、いろいろな値段の基準としてもよく引き合いに出されますが、農作物など、天候や災害に左右されるものは物価が変動します。幕府では極力変動幅を低くするよう指導し、飢饉の時には備蓄米を放出して高騰しないように調整するものの、あこぎな商人は買い占めや売り惜しみをして高く吊り上げる。あるいはカルテルを結び、互いに牽制して義侠心から安く売る店がでないようにした。江戸時代は前期は武士が強く、商人は動かずに儲ける奴と蔑んで押さつけていたので不当利得をする者はほとんどいなかったものの、次第に商人の力が強まり、武士個人、更には藩までが商人に借金をするようになって頭が上がらなくなり、強く出られなくなった。吉宗の頃には商人の横暴ぶりが激しくなり、かの大岡越前とともに商人同士の結託や物価操作などをやめさせようといろいろ苦労したものの、顕著な功績も得られないまま2人とも亡くなり、以後も商人なくして武士なしといった状態が幕末まで続いてしまいました。

 越前ほどではないものの、代々の町奉行も物価には目を光らせ、不当であると認めた時は主人を呼んで説諭しました。叱ったり脅したりはしません。あくまで説き諭すのです。商人たちはその場では畏まって「わかりました」としおらしい態度はとるものの、しばらくするとまた繰り返す。中には多少強く言う奉行もあったものの、奉行はしばらくすれば入れ替わる。うるさい奉行も数年たてば去る。高級官僚にとって、大臣はすぐ変わるからということで軽く扱うのと共通しています。つづく

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