町奉行(2)
【町奉行】
町奉行には与力、同心といった直属の部下とは別に、江戸の街を治める上で町人の代表を行政の監督者として任命し、みなし公務員ような立場で町民たちの問題解決などに当たらせました。
まず、一番下が大家。大家はおおくが大店(おおだな)の主人で、本業のほかに借家を多く持ち、これを職人などに貸して住まわせていました。大家と言えば親も同然、という言葉があるように、大家は借家人の生活全般の面倒を見、身許保証人にもなり、現代の大家よりもかなり積極的に借家人に関わっていました。
大家の上が町名主。村にも名主がおり、西日本では庄屋と言っていましたが、今の町会長、区長(地区の区長)に当たります。大店の主人の中から選ばれ、住人が奉行所へ出頭する時は必ず同行しなければならず、本業どころではありません。店の者(大番頭ら)に任せられる人がなります。
町名主の上が町年寄。年寄といっても老人ではなく、大相撲の親方同様、年長者で人を束ねる立場の者のことです。老中、家老、若年寄といった武家の身分もすべて同じ。「老」といっても20代、30代の人も珍しくありません。
町年寄は今の区長、市長に当たり、町の行政全般を監督します。幕府からの触れ、達しの伝達から、人別改め(戸籍)、消防、訴訟の世話、衛生、風紀、保安、交通など、あらゆることを監督、取り締まった。町年寄も大店の主人から選ばれ、定員は3名。奉行との面談、折衝も多く、武家に対して物怖じせず、武家のしきたりから幕府の法令まで通じている必要があるため、特定の大店による世襲のほうが日ごろから跡取りに教えることができて都合がよいことから、選挙という建前はあるものの、実際は3家が固定されたものとなりました。奈良屋,樽屋,喜多村で、これらは幕府から日本橋に屋敷を拝領。身分は町人でも、武士が担当する行政の多くを担いました。さすがに司法と警察に関してはタッチできなかったものの、それ以外の奉行所の職掌の多くを下支えし、奉行所も町人らの協力があったからこそ、100万都市の治安を守ることができたわけです。
司法と警察はタッチできないとはいえ、その小さなこと、町内での喧嘩やもめごとに関しては町名主、それがだめなら町年寄りの仲裁で極力解決するようにしました。五人組制度、これは相互監視の悪制度として喧伝されてしまっていますが、江戸幕府の政治目標は「鰥寡孤独を守る(作らない)」で、そのために相互扶助、連帯としてすべての者は五人組に入るようにしたものです。
鰥寡孤独とは、妻や夫に先立たれたり別れた者、親や子、兄弟のない一人者のこと。孤独になると自暴自棄になったり人生を悲観し、自殺のみならず他人に危害を加えたり、中には政治が悪いからといってお上に謀反を起こす者も出る。幕府は慶安事件(由井正雪の乱)で浪人の存在がトラウマになっており、加えて庶民の一人者、孤児の存在も政治の責任という自覚から、一人者も五人組の一員とすることで家に引きこもるようなことがないようにした。
このような五人組制度もまた少ない奉行所役人で効率よく治めることができたという点は、評価に値するものといえるでしょう。つづく
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