仏像図彙154

【154】無畏方吼(むいほうく)


[通釈]

無畏方吼 梵字はオーン

(本文なし)


[解説]

 無畏方吼は、眼は三つあり、左手に千宝羅網を持つ。これも旧訳(くやく)仁王経による。蔵王権現の像様はこの五大力菩薩辺から考え出されたのではないか(冢堀庵氏説)。新訳仁王経では、方位は西、金剛利菩薩になる。無畏十力吼とも。「無畏」は畏(おそ)れ無し。災厄を畏れない。


[千手観音の持物]20

宝鏡手


 鏡は人の姿だけではなく心までも映す物と考えられてきました。心が醜いと表情も醜くなるもので、そういう人はおのれの姿を映されるのをいやがるものです。持物としての鏡は、仏の大きな智慧を表しています。


[雑記]

 日々増え続ける寺院やお坊さんによる動画。その中には、リモート参拝者からの質問に答えるといったことをされているご奇特なものも。

 質問は、最初のうちは仏教のこと、仏事のこと、仏具のことといった基本的なものが多く、そのお坊さんが何でも答えてくれそうだとわかると、そのお寺のこと(来歴やご本尊について、他)、お坊さんについてのことなど事細かなものになり、やがて悩み事の相談といったものが来るように。

 人生相談のようなものも努めて応じる方もおられるようですが、はさらりとした答え方に終始するものが多い。中には、メッセージの読み上げはするものの、拒否ではないものの、「いろいろ迷いや苦しみはあって当然」としたうえで、「上手くゆくように祈っています」といった返答だけという方も。相談者にとっては、特に信心深い人でないごく普通の俗人だと、とても物足りなく、時には不満に感じることも。

 しかし、仏教はブッダ(釈尊)の教えを奉じたり説くもので、その釈尊は「人に依らざるべし、法に依るべし」と教えている。つまり、何かあっても人に頼るのではなく、法(のり。教え)を理解し、それによってやることが最善だし、それしかないということ。お坊さんは修行者であり、教えを説くのが本分で、「こうしたらいい、ああすればよい」と指示したり助言する専門家ではないわけです。仏の説く智慧を法話によって伝える姿を見ると、個人的な悩み相談にも応じてくれそうだと思ってしまうし、ただ無言、ひたすら沈黙の仏像に話しかけてもその場で直接何も返ってこないのに比べて、生きたお坊さんにすがりたい気持ちは私もよくわかる。そうできるものならそうしたいと思うことも何度あったことか。

 しかし、甘言による誘いほど危険なものはないことは、社会問題にまでなっている組織や個人を見てもわかるし、宗教は結局、自分で思索し、自分で実践すべきもの。そう思い至ってからは、それ以前もですが、お坊さんになにかを聞くということはしたことがないし、したいとも思いません。月並みな言い方ですが、仏は自分の中にいる、それを信じ、大切にすることから、おのずから道は開けるのではないかと愚考する次第です。

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。