佛像圖彙133

【133】金剛宝地蔵(こんごうほうじぞう)


[通釈]

金剛宝地蔵 梵字はイ

左手に宝珠を持ち、右手は甘露の印を結ぶ。

餓鬼道を救う。


[解説]

 金剛宝地蔵は、餓鬼道において衆生を救う地蔵。

 餓鬼(がき、サンスクリット語ラテン翻字: preta、音写: 薜茘多(へいれいた))は、仏教において亡者のうち餓鬼道に生まれ変わったものをいう。preta とは元来、死者を意味する言葉であったが、後に強欲な(生前に贅沢をした)死者を指すようになった。餓鬼道(界)では、餓鬼は常に飢えと乾きに苦しみ、食物、また飲物でさえも手に取ると火に変わってしまうので、決して満たされることがないとされる。餓鬼道も広義の地獄の一つで、現世の50年が地獄の1日に相当し、地獄におとされた者は計り知れないほどの長い期間、苦しみを味わわされることになるという。

 餓鬼にはいろいろな種類があるが、単に贅沢をした者だけではなく、例えば

食吐(じきと):自らは美食を楽しみながら、子や配偶者などには与えなかった者がなる。荒野に住み、食べても必ず吐いてしまう、または獄卒などに無理矢理吐かされる。

食糞(じきふん):修行者である僧に対して不浄の食べ物を与えたものがなる。糞尿の池で蛆虫や糞尿を飲食するが、それすら満足に手に入らず苦しむ。次に転生してもほとんど人間には転生できない。

 といったように、生前の具体的な行為に対する懲罰といえるようなものが多く存する。昔はこういう話が修養における教材となり、生きてゆく上での戒めとなったものだが、今は修養としての道徳が保守反動と思われる一方、権力側も扱いやすい国民を育成しようとして干渉を強めているため、結果的に心の修養がなされないまま成人してしまう人が多く、「人を殺せば死刑になる」からという理由で無差別殺人をする人も絶えない。しかし、死刑になったあとにどういう目に遭うかといった怖れが昔の人には自制心となったものが今はそれがないから、さまざまな理由で精神的に追い詰められ、自暴自棄になった人が多いようだが、他人を殺す殺生というのは最も重い罰を地獄でも受けることになる。地獄も極楽もない、と否定するのは自由だし、もとよりそういうのがあるという具体的な科学的証拠はないが、では、「生」とはなんなのか、なぜ生きているのか、ということになると、これもまた説明はできない。哲学や宗教では最も重いテーマであり、古来より多くの聖人賢人哲人たちがあれこれ思考し、その教えをよしとする人たちが伝えたり広めているが(地獄というのも、その中で考え出されたもの)、決定的な証明や答えは得られていない。つまり、我々は不安、不安定な中を生きていかなければならない。だからこそ、なにかを脅かしたり苦しめることをしない、させないようにして、現世が少しでも極楽に近づけるように努力しなければならない。そのために政治がある。

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。