佛像圖彙103
【103】蓮臥観音(れんがかんおん)
[通釈]
蓮臥観音
正応身
[注]
正応身 『観音経』普門品の句に基づく。望月仏教辭典には「小王身」とあり、現世の王の事とする。高貴な身分のため蓮の上に坐す。応身(おうじん)は、衆生を済度するために姿を現した仏。
[解説]
蓮臥観音は、清浄な池の中の蓮華の上に坐臥することからこの名があり、完全に横を向いている姿が特徴。釈尊の前世において、定光仏が歩こうとしていた道がぬかるんでいたため、自ら臥して解いた髪を泥の上に置き、その上を踏んで通って頂いたという説話によるとされる。
[雑記]
唯今は10月13日。日蓮大聖人が池上の地で入滅された日で、日蓮宗にとって最重要なお会式の日です。日蓮大聖人(立正大師)は受難(法難)の連続で、処刑寸前にまでなったことも。
ところで、よく言われているように、仏教の祖である釈尊の一生はこれといった受難も迫害もなく、これ以上ないという恵まれた階級の出身であり、修行にしろ説法にしろ、それにより弾圧を受けたり囚われの身となることはなく、生まれ故郷に戻って最期を迎えました。キリストは処刑をされたし、孔子は諸国行脚の途中で盗賊に間違われて殺されかけたり、餓死の危機の状況になるなど、苦しい目に遭っています。これに比べると、俗な言い方で失礼ですが、釈尊は常に自分の思うように生き抜くことができたわけで、苦境によって人々の心を揺さぶり、その強さに惹かれて信仰の対象とする信者、尊崇者たちを獲得するといった他の聖人たちとは性格が違います。
しかし、恵まれた境遇にもかかわらず、なぜ生まれたのか、なぜ死ぬのか、なぜ存在していることがこうも苦しいものなのか、といった誰もが痛切に感じ、わからないことに対して、釈尊はなんとかその答えを見つけようと進んで修行の道に入り、生老病死についてはいかんともし難いが、少しでも迷いや恐れの心を軽くするにはどうすればよいか、諦めということについて説法をすることで大勢の人を救うことに生涯を捧げた。我が身と法(のり)によって生きること、これが全てであるということ。今でこそ簡単にこう言えてしまいますが、釈尊がそういう思いに至るまでには大変な思索の巡らしがあり、人知れぬ苦労もあったはずで、権力者から迫害を受けることだけが受難ではないわけです。自分で進んで苦しい思いをすることで光明を見いだそうとする。祖たる人にして出来る立派なことですね。
0コメント