佛像圖彙101
[通釈]
遊戲観音
堕落金剛山
[注]
尊名は遊戲自在に衆生を済度することから。
堕落金剛山 普門品の偈文「堕落金剛山(だーらくこんごうせん) 念彼観音力(ねんぴーかんのんりき) 不能損一毛(ふーのうそんいちもう)」に基づく。金剛山とは仏教の世界観で、この世の一番外側にあるとされる山。この山に堕ちるのは地獄に堕ちるに等しいと見做された。
[解説]
遊戲観音は、戯は無礙(むげ)の意で、自在な神通。遊戯とは、仏菩薩が自由自在に人を導き、それによって自ら楽しむこと。『観音経』に「あるいは悪人に逐われて金剛山より墜落するも、かの観音の力を念ずれば一毛をも損することあたわず」とある。
古来、インドでは、神のはたらきを「遊び」と言い習わしており、遊びは楽しいもの、つまり融通無碍(ゆうずうむげ=何物にもとらわれない自由な境地)のはたらき。自我意識を悟りの世界にとけこませ、悟りの世界でゆったり遊ぶことをあらわしているという。
本書の絵が尊像とともに「堕落金剛山」とだけ記しているのは、何やら教訓というか警告のようでインパクトが強い。
[雑記]
『梁塵秘抄』の代表的な歌に次のものがあります。
遊びをせんとや生れけん
戯(たはぶれ)れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそゆるがるれ
意味は、
遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか。
戯れをしようとして生まれてきたのだろうか。
遊んでいる子らの声を聞くと、
私の体までもがおのずと動き出す
人は遊びをするように生れてきたのではないか。その証拠に、子どもの声を聞くと大人の自分でも体が動いてしまうのだから、というものです。
これに対して、私とは遊女で、自分はこんな男女の悦楽をするために生まれてきたのだろうか、昼間は子どもたちと同じように遊び戯れるが、夜になって子どもたちは寝ているのに、そんな時でさえ自分は遊んでいる、こんなことのために生まれてきたのだろうか、というように、自分の生き様、境遇を嘆いているとする解釈もある。
ところで、「遊びをせんとや~戯れせんとや~」の部分ですが、単に対句的表現で強調させるという表面上の技巧だけなのでしょうか。
そう、この「遊」「戯」は、遊戯観音を念頭に置いているのではないか、という考え方も可能です。この線で解釈されている方もおられると思いますが、『梁塵秘抄』の現存する歌の大半は仏教思想が強く反映されたものばかりです。選者の後白河法皇自身が出家の身で仏心がとても篤かったことから、神仏に関するものを好まれたとしても不思議ではない。
この「遊びを」の歌は、表面上は仏教に関する言葉はなく、仏歌にも神歌にも入れられていません。しかし、なぜこの世に生まれたのか、というのは、仏教にとって最大のテーマであり、釈尊もまた大いに思索を巡らし、悩まれた。生まれた以上は老いて、病気になって、最後は必ず死ぬ。これらはなんとかして避けることはできないものかと思案を続けたものの、それは不可能と悟った。不可能である以上は受け入れ、諦め、どのように生きるか、どのように死を迎えるか、これも明解な答えはないものの、やがて釈尊は諦めについて説法をするようになった。
で、遊びの歌に戻りますが、身を持ち崩す遊興三昧のために生を受けたわけでないとしても、人の本性として、気持ちが楽になる遊びを全否定するのは困難だし、ある程度のことならむしろ生きていく上で支えにも力にもなる。何事もほどほどがよいわけで、遊びのために生まれてきたのか、と深刻に考える必要はないでしょう。
子どもの遊びは無心です。しかし、大人になって無心で遊ぶのはほぼ不可能だし、後先考えず無心になる、のめりこむのは身の破滅になる。
このような解釈ではなく、遊戯観音のように仏道を楽しみ、人にも伝える、そういう楽しみのために私は生まれてきたのだろうか、と自問し、ふと子どもたちを見ると迷いなく遊んでいる、それを見て、そうだ、あのように無心になり、仏道に帰依して、ひたすら遊戯観音さまのように人を導き、自分も楽しむ、これこそが生まれて来た意味があり、甲斐があるではないか――このような解釈も私見として提示したいと思います。既に同様の説は必ずあるはずですが。
0コメント