佛像圖彙99
【99】持経観音(じきょうかんおん)
[通釈]
持経観音
声聞身
[注]
声聞身 しょうもんしん。声聞としての姿形、また、その身体。声聞は、仏の教えを聞いて悟る者や、教えを聞く修行僧、すなわち仏弟子を指す。
[解説]
持経観音は、岩に坐り右手に経巻を持つ。左手は膝の上に置く姿で、この観音の奉持する経典には、如来の説法の内容がすべて込められており、声聞を教化する姿を現すという。『観音経』に「声聞のみをもって得度すべきものには、すなわち声聞の身を現じて、ために法を説く」とある。
画像は東京赤羽大恩寺の持経観音像。
悟りの続き。ドイツ生まれのスイスの作家で、主に詩と小説によって知られる20世紀前半のドイツ文学を代表する文学者のヘルマン・ヘッセ。彼は1922年に『シッダールタ』を発表。この作品は釈迦の出家以前の名前を借りて、求道者の悟りの境地に至るまでの苦行や経験を描いたものです。
第一部はすらすら書けたものの、釈迦が解脱する第二部はなかなか書けず、完成には3年もかかったとのこと。彼は20年もインド思想を研究していたので、観念的にシャカの解脱も理解できたが、実感的に表現できなかったのがその理由とのことです。
苦しみから離れる解脱、つまり悟りの境地を得るというふうに言われているものですが、聖人の言行録は容易に書けても、その内面世界は他人には分かり得ない。当然です。たとえ釈迦と同じように山に籠って苦行をしたり、それをやめて山から下りて説法をしても、釈迦が獲得した悟りを自分も得られるものではないし、何を悟ったのかに至っては、とても分かりようがない。どれほど時間をかけて研究して膨大な経典を読みこなせたとしても、それで釈迦の心そのものが完全にわかるものではない。むしろ、分からないからこそ、逆にそれぞれのイメージにより修行に精が出るのではないかと思うのです。ハードルが高すぎては修行を最初から諦めてしまう人が続出するし、悟りとはこういうことだ、と一言で明快に言えるものだとすれば、「そんなものはもう自分に備わっている」などと分かったようなことを言って、逆に仏道修行を軽視する人が出てくるのではないか。ヘッセはヘッセなりの答えを出していますが(それについては作品を御覧下さい)、それはあくまでヘッセが会得したものであり、釈迦のものとは違う。ただ、釈迦の狙いは到達点ではなく、それに向って励むひたむきさの心というなら、ヘッセも見事に「悟りを開いた」と言えるかもしれませんが。つづく
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