佛像圖彙97
[通釈]
楊柳観音 梵字はサ
楊柳観音は応心の慈悲の御心で兎も角も機の楽欲(ぎょうよく)に応て救う事は、さながら春風に柳の枝が靡くようである。故に六観音に準じるものとする。
[注]
応身 三身の一つ。「法身」「報身」「応身」の三つを三身といい、寿量本仏釈尊にはこの三身の徳が具わっているとする。「法身」とは、仏の証得された真理そのものを人格化した名称で、真理には生滅がなく、従って始めも終りもない。「報身」とは、釈尊は無限の過去に菩薩行を修し、真如の妙理を徹見され宇宙の真理は妙法なることを証得、この実修実証によって、万徳荘厳の光明に耀く智恵を果報として具えられた。その報身如来が衆生済度のために身を現わして、生滅の相を示された仏を「応身」という。
機 何かのきっかけにより仏道に目覚める事。不肖、この私も『佛像圖彙』の訳注を始めて諸書に当たり、いろいろな仏像を拝するようになり、仏道に大いに関心を持つようになった。一昨年に母を亡くしてより日々、『般若心経』や『十句観音経』などを読誦するようになったが、こういうのも機といえるでしょう。但し、深入りはせず、あくまで時に仏を思うといった程度にしている。
楽欲 ぎょうよく。願い求めること。
[解説]
この楊柳観音は 恐らく中国の宋代頃に新たに案出された像様と思われる。彫刻は寡聞にして知らず。管見の物は全て画像である。現在、三十三観音の一つとされているが、『佛像圖彙』ではその性格から六観音に準じるものとして六観音(七観音)の末席に加えている。江戸時代にはこのような扱いがされていたのか、特定の宗派だけ、あるいは本書の作者の個人的な見立てなのかわからないが、個人的な考えをこのような形で押し通すとは書物の性格上あり得ないので、楊柳観音の別扱いは当時行われていたとみるべきだろう。仏画の画題として愛好されてきた。
右手に楊柳の枝を持っているか、または、座右の花瓶にこれを挿す。衆病を消除することを本願とする観音。楊柳観世音菩薩。楊柳観世音。楊柳観音菩薩。高麗僧慧虚筆の『楊柳観音図』 (東京,浅草寺) は高麗仏画の傑作として名高い。
画像は滋賀の聖衆来迎寺本(重文)。
[雑記]
本書の訳注を進める中、悟りとは何かということを考えるようになりました。といっても、深く考えてもわかるものではなく、出家の身となり、日々仏道修行をしてゆく中で、次第に何かを感得するものでしょうから、深くは考えず、日常生活の中でふと我に返った時、自分とはなにかといったことを思ったりしています。「悟」という字がりっしんべんに吾という字で、意味は「心が明るくなること」と辞書では説明されていますが、吾が心に向き合うという解釈も出来、常に自分を見失わず、自分にうそをつかずに生きていけば、おのずから何か分かることもあるだろう、と、そんな程度の気持ちでいます。つづく
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