佛像圖彙79
【79】衆宝王菩薩(しゅほうおうぼさつ)
[通釈]
衆宝王菩薩
衆とはもろもろと読む。宝は珍なりと訓じて貨と読む。王とは自在の意味。故に衆の宝の王との意味である。
宝とは七種珍宝・七種王宝であるが、これに限らず一切の宝を合わせて名とせられた。
[注]
持物は銅祓子(どうばちし)。銅祓(どうばち)、鐃祓(にょうはち)とも。打楽器の一種。銅の円盤の中央を少しふくらませて穴をもうけ、紐を取りつけたもの二枚を左右の手に持って打ち合わせて鳴らす。現在のシンバルのような楽器。奈良時代、中国から伝来。古くは雅楽にも用いられたが、現在は神楽、歌舞伎の下座音楽、寺院での法会(読経)などに用いられる。もともと読経にこれを用いるというしきたりがなかったことから、宗派というより各僧侶の好みなどで用いる人もあれば全く使わない人もいる。鐃と祓は本来別物であったが、似ているため混同され、現在は同じものを指す。鳴らし方にはコツがあり、ただ左右を力まかせに合わせ叩けばよいというものではない。
[解説]
衆宝王菩薩は、七つの珍宝や王宝など、一切の珍しい宝物を自在に集めることのできる菩薩。七宝は、無量寿経では、金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲(しゃこ)・珊瑚・瑪瑙(めのう)をいい、法華経では、金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰(ばいかい)をいうなど種々の数え方がある。七種(ななくさ)の宝。ななの宝。七宝(しちほう)。
[雑記]
浄土は金銀財宝があふれ、とてもきらびやかである、ということになっています。どんなむごい責め苦を味わわされても死ぬことができない地獄と対比して、だれもが極楽浄土に行きたいと願い、そのために在家の人も仏道に帰依し、ひたすら念仏や題目、宝号を唱えたり、般若心経などを読誦して往生を願うわけです。
しかし、仏教学者などの間では、煩悩の塊のような財宝が満ち満ちた浄土というのはおかしいのではないかといった議論が古くからあり、いわれてみれば確かにその通りで、もう財宝に執着することがない境地、悟りに到達した人たちが仏となって住む場に財宝は無用というより、全くそぐわない。さらに、日本の仏教ではあまり出て来ないようですが、本場インドにおける極楽浄土は大勢の天女たちが舞い、仏は全員男性であることから、酒池肉林のおぞましい場とほとんど変わりがないようにさえ思える。但し、浄土では性的関係はすべて断じていますが。
この事について、仏教学の大家で、今も右に出る学者がいない故・中村元博士が岩波文庫の『浄土三部経』の解説で私見を述べられています(もちろん、サンスクリット語で読み書きができる)。
それによると、すべて自然の木々までもが金や宝石でできている浄土というのは、浄土経典のつくられたクシャーナ王朝時代(金貨の流通量が最も多く、質も良かった)の富者階級の生活が理想化され、反映された世界であろうとする。つまり、古くから階級制度が厳然と存在していたインドの現実がそのまま「あの世」にも持ち込まれ、死んだら今度は富裕な身になりたい、男として生まれ変わりたいという切なる願いが、七宝で満たされた男社会への憧れとなったというわけです。もちろん、これは中村博士の見解であり、違った見方をされる方もいることでしょう。
中村博士は更に、珍しくこういう世界に対して痛烈な批判を加えています。
「ところで、極楽浄土は罪や汚れの無い清らかなところでならなければならないのに、それが黄金臭を紛々とまきちらしているとは、人間というものは何と貪欲な、エゲツナイものなのだろう」
東南アジアなどでは、仏像といえば派手に色が塗られたり、黄金仏も多数あるほどで、これも黄金臭に通じるものかもしれません。日本の場合は、一部には着色、化粧を施されたものもありますが、総じて銅製であれ木製であれ、石であれ、元の素材のまま、あるいは簡単に上塗りをしただけの仏像が多く、むしろこれこそが煩悩から脱却した形といえるかもしれません。
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