佛像圖彙64
【64】大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)
[通釈]
大勢至菩薩(梵字はサク)
梵語ではマカナハツ、訳して大勢至という。『首楞厳経』(しゅりょうごんぎょう)には「我はもと因地(菩薩の地位)に有って、念仏する心を以て、無生忍(真理を悟った安らぎの境地)に入らせる。今この界において念仏する人を救い浄土に帰らせる」とある。『維摩経』(ゆいまぎょう)には得大勢至という。
[注]
首楞厳経 書名。首楞厳三昧経の略。鳩摩羅什の訳。三巻。首楞厳三昧について説く。首楞厳三昧とは、第十地に住する菩薩が得る三昧。将軍が兵をひきいるように、一切の三昧がこれに随従し、また、転輪聖王の強敵を平伏させるように、悪魔を調伏する勇猛で堅固な三昧。引用の部分は大勢至圓通文。法然上人が據り所とした部分として浄土門で重んじられている。
維摩経 書名。現在三種の訳が流布している。早くから訳され三国呉の支謙の訳。次いで鳩摩羅什、更に玄奘の訳がある。画像は維摩経無我疏
[解説]
大勢至菩薩。(mahā-sthāma-prāpta ) 阿弥陀三尊の一つ。阿弥陀仏の右の脇士で、智慧の光で一切を照らし、衆生をして餓鬼・畜生・地獄の三悪道から救い、臨終には来迎して極楽に引導するという菩薩。一般的には勢至菩薩という他、大精進菩薩、得大勢菩薩の別名がある。画像は勢至菩薩像 (ケルン市東洋美術館蔵)。
[雑記]
Twitterで、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」について、あれは多くの亡者たちが糸を掴んで登ろうとしたために過重により切れたのだ、という意見を述べた人がおり、それに対して科学的どうこうと分析するのはふさわしくない、といった批判や疑問が多数寄せられ、いろいろ応酬しているのを偶々見つけて傍観したことでした。
極短編で読みやすいことからどの国語の教科書にも採用されるほどの作品であり、知らない人はまずいないと思います。
浄土にいる釈迦がある朝、散歩中に蓮池を通して下の地獄を覗き見ると、カンダタ(犍陀多)を見つけた。そこで、蜘蛛の糸を垂らすと、暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見たカンダタは地獄から出られると考え、糸につかまって昇り始めた。すると、他の罪人たちも次々と登りはじめたため、カンダタが大声で「この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ」と喚いた。その途端、糸がカンダタの真上の部分で切れ、カンダタは再び地獄の底に堕ちてしまった。無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまったカンダタを浅ましく思ったのか、それを見ていた釈尊は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った ――
私も何度も読んだ作品ですが、久しく読み返していなかったので、よい機会だと思い虚心坦懐に読み直しました。筋がはっきりしており、異なった印象を受けるということもありませんでした。
そこで、この作品に関する解説類を見てみると、本作は「赤い鳥」創刊号のために芥川が初めて書いた童話で、掲載にあたり鈴木三重吉が手直しをしたということを初めて知りました。つまり、完全な芥川の作品ではないということ。もちろん、物語の趣旨は変えていないわけですが、語彙や表現は芥川のオリジナルではないわけです。これは残念ですね。芥川もまだ駆け出しの頃で、しかも漱石門下の鈴木によって世に出て、更に生前の(そして最晩年の)漱石に激賞された恩義もあり、作品の手直しを拒否するといったことができなかったのでしょうが、語彙一つにもこだわりのある芥川の原作品がどうであったのか、今では知ることができませんが、実に残念であるとともに、いじられた作品をあれこれ議論するのは空しい気もしてきました。つづく
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