1901年8月30日

1901年8月30日 明治34年

【内 閣】

第1次桂太郎内閣

総理 桂太郎/外務 曾禰荒助(臨兼)/内務 内海忠勝/大蔵 曾禰荒助/陸軍 兒玉源太郎/海軍 山本權兵衞/司法 清浦奎吾/文部 菊池大麓/農商務 平田東助/逓信 芳川顯正

内閣書記官長 柴田家門/法制局長官 奥田義人

【元 老】

黒田清隆 伊藤博文 山県有朋

【東 京】

府知事 岡部長職/東京市長 松田秀雄

1911年8月30日 

西園寺公望が14代内閣総理大臣に就任し、第2次西園寺公望内閣が発足

第2次桂内閣が条約改正の成功を機に退陣すると、政権は再度西園寺に回ってきた。立憲政友会の閣僚数は前回より1増加した他、他の閣僚も親政友会系の官僚が複数入閣した。内務大臣に就任した原敬は衆議院議員選挙に小選挙区制を導入しようとするが、貴族院の反対で否決された。だが、貴族院内に親政友会の会派である交友倶楽部が形成され、次第に貴族院にも勢力を伸ばしていく。また、衆議院でも多数を確保して安定した政権運営が期待された。だが、伊藤博文の暗殺によって元老間の権力均衡が崩れて山縣有朋の発言力が増大し、更に辛亥革命の影響もあって陸軍の増強圧力が高まった。これに対して行財政改革を進める西園寺内閣はこれを拒絶するが、上原勇作陸軍大臣が辞表を提出、陸軍は軍部大臣現役武官制を盾に後任陸相の推薦を拒否したため内閣は総辞職に追い込まれた(二個師団増設問題)。第2次西園寺内閣の任期中の1912年(明治45年)7月30日に明治天皇が崩御、皇太子嘉仁親王が践祚したことにより、明治時代が終了し、即日、元号が『大正』と改元されて大正時代の幕開けとなる。

総理 西園寺公望(侯爵)

外務 内田康哉(子爵)

内務 原敬

大蔵 山本達雄

陸軍 石本新六(男爵・陸軍大将)(8月30日 - 1912年4月2日)/上原勇作(男爵・陸軍大

将)(1912年4月5日 - 同年(大正元年)12月21日)

海軍 斎藤実(男爵・海軍大将)

司法 松田正久

文部 長谷場純孝

農商務 牧野伸顕(男爵)

逓信 林董(伯爵)

内閣書記官長 南弘

法制局長官 岡野敬次郎

過去の出来事

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