仏像圖彙10
【10】中品中生(ちゅうほんちゅうしょう)
[訳]
中品中生は良く諸戒を保つ者。弥陀は比丘(びく)に蓮華を持たせて行者の前に赴く。空中より声を掛け「諸仏の教えによく隨順したるが故に、我は来迎して汝を彼の国に往生させようと」とのたまわれる。
[冢堀庵注]
空中から声を掛けるとは、段々と粗略に成って来ます。
[解説]
比丘とは、所定の戒を受けて仏門に入った男子修行者。転じて一般に、僧のこと。女性の出家修行者は比丘尼(びくに)。
中品中生は、1日1夜に五戒・八戒を具足し、また沙弥戒(年少の僧侶が受ける戒律)や具足戒を持ち、威儀端正にして欠くことが無い者で、往生すると蓮華が開敷し、法を聞いて歓喜して須陀洹果を得て、半劫を経て阿羅漢となるという。須陀洹果は無漏(むろ)の聖者の流れに入った者のことで、四向四果(しこうしか)の最初の段階。四向四果 とは、原始仏教や部派仏教における修行の階位のことであり、預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅漢向・阿羅漢果のこと。阿羅漢とは、最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。この境地に達すると迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができるという。略称して羅漢(らかん)ともいう。
九品にしても四向四果にしても、仏教はさまざまな階級がある。修行を積むことで一つずつ上に上るのは励みにもなるし、常に努力向上心を失わないためにもよいことだが、常に根源的な疑問として、釈迦は苦行が無意味であることを悟ったのに、仏教ではなぜ多くの段階を設けて修行を積ませるのか、ということに帰着する。
一つの説として、インドの階級制が影響しているということ。釈迦も時代の人であり、階級というものから完全に脱却、訣別することはできず、その意識が後に続く信者たちにも継承され、いろいろ考案された仏さまにも階級をつけるといったことになったとするもの。中心をなす仏、その両脇でつき従う脇侍、さらにその周りで守る眷属といったように、時代が下るとともにいろいろなものが融合し、広義の仏像にさまざまなランクがついた。
九品仏の性格として、中の中にもなると粗略になるという批判があり、それは否定できないが、人はそれぞれ持って生まれた器量があり、さらに努力(信心の深さ)によって少しでも上に到達することで、それに応じた仏さまが迎えに来られると思えば、有難味が薄れることもないと思う。
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