1943年10月6日
1943年10月6日 昭和18年 火曜日
【内 閣】
内閣総理大臣 東條英機/外務 重光葵/内務 安藤紀三郎/大蔵 賀屋興宣/陸軍 東條英機(兼
任)/海軍 嶋田繁太郎/司法 岩村通世/文部 岡部長景/農林 山崎達之輔/商工 岸信介/軍需 東條英機(兼任)/逓信 寺島健軍人/鉄道 八田嘉明/大東亜 青木一男/厚生 小泉親彦/国務 岸信介(商工省)・大麻唯男(翼賛政治会)・後藤文夫(研究会)/内閣書記官長 星野直樹/法制局長官 森山鋭一
【宮中主要官】
内大臣 木戸幸一/宮内大臣 松平恒雄/枢密院議長 原嘉道/枢密院副議長 鈴木貫太郎
【軍部高官】
[陸 軍]
陸軍次官 富永恭次/軍務局長 佐藤賢了/参謀総長 杉山元/参謀次長 秦彦三郎/教育総監 山田乙三
[海 軍]
海軍次官 沢本頼雄/軍令部総長 永野修身
【植民地高官】
朝鮮総督 小磯国昭/台湾総督 長谷川清/関東長官 梅津美治郎/樺太庁長官 大津敏男/南洋庁長官 近藤駿介
【東京都長官】
大達茂雄
【首 長】
大阪府知事 河原田稼吉/大阪市長 坂間棟治/京都府知事 安藤狂四郎/京都市長 篠原英太郎/北海道庁長官 坂千秋/青森県知事 宇都宮孝平/岩手県知事 鈴木脩蔵/秋田県知事 長船克巳/宮城県知事 内田信也/山形県知事 斎藤亮/福島県知事 亀山孝一/茨城県知事 古井喜実/栃木県知事 安積得也/群馬県知事 篠山千之/千葉県知事 川村秀文/埼玉県知事 数藤鉄臣/神奈川県知事 近藤壌太郎/山梨県知事 多湖實夫/新潟県知事 前田多門/富山県知事 坂信彌/石川県知事 田中重之/福井県知事 加藤初夫/長野県知事 郡山義夫/静岡県知事 今松治郎/愛知県知事 吉野信次/岐阜県知事 三好重夫/滋賀県知事 菊池盛登/奈良県知事 澤重民/三重県知事 持永義夫/和歌山県知事 広瀬永造兵庫県知事 成田一郎/岡山県知事 橋本清吉/広島県知事 横山助成/山口県知事 熊谷憲一/鳥取県知事 武島一義/島根県知事 山田武雄香川県知事 小菅芳次/徳島県知事 野田清武/愛媛県知事 相川勝六/高知県知事 高橋三郎/福岡県知事 吉田茂/佐賀県知事 田中省吾/長崎県知事 山内義文/大分県知事 早川元/宮崎県知事 西広忠雄//熊本県知事 横溝光暉/鹿児島県知事 柴山博/沖縄県知事 泉守紀
第二次世界大戦・ソロモン諸島の戦い: 第二次ベララベラ海戦
第二次ベララベラ海戦(Battle of Vella Lavella):太平洋戦争中の1943年10月6日に、ソロモン諸島のベララベラ島沖で発生した海戦。日本軍のベララベラ島撤収部隊とアメリカ軍が交戦し、双方駆逐艦1隻が沈没した。アメリカ軍側の呼称はベララベラ海戦。
[参加艦艇]
日本海軍
夜襲部隊:駆逐艦「秋雲」(第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐座乗) 、「風雲 」、「夕雲 」、「磯風」 、「時雨」 、「五月雨」
輸送部隊:駆逐艦「文月」、「夕凪」、「松風」、小発6隻、折畳浮舟30隻
収容部隊:第20号駆潜特務艇、第23号駆潜特務艇、第30号駆潜特務艇、艦載水雷艇3隻、大発1隻
アメリカ海軍
第4駆逐部隊(Destroyer squadron 4):駆逐艦「セルフリッジ」(フランク・R・ウォーカー大佐座乗)、「シャヴァリア」、「オバノン」
第42駆逐群(海戦に間に合わず):駆逐艦「ラルフ・タルボット」、「テイラー」、「ラ・ヴァレット」
10月5日、まず3時30分に輸送部隊がラバウルを出撃し、続いて5時には夜襲部隊もラバウルを出撃する。収容部隊は5日夕刻にブインを出撃。輸送部隊と夜襲部隊は早々に偵察機の触接を受けるも、両部隊はブーゲンビル島北方で合流。16時、輸送部隊と夜襲部隊からの「時雨」と「五月雨」は先行して収容部隊に合同しベララベラ島近海へ、夜襲部隊は偽航路を取ったりスコールの中に身を隠しながら遅れてベララベラ島近海へと向かう。ベララベラ島が近づくにつれ、「時雨」では「巡洋艦4隻、駆逐艦3隻」から成るアメリカ艦隊接近の連絡を受けた。また、水上偵察機が、万代浦および先明崎と呼ばれた収容地点付近で照明弾を投下したところ、駆逐群二隊が行動中であるのを確認し、これを受けて伊集院大佐は輸送部隊に一時退避を命じる。一方、偵察機からの報告を受けた第3艦隊(南太平洋部隊。ウィリアム・ハルゼー大将)では、迎撃のためウォーカー大佐率いる第4駆逐部隊(以降ウォーカー隊とする)からの駆逐艦3隻をベララベラ島近海へと急行させた。その頃、ベララベラ島守備隊は万代浦および先明崎に集結し、ニュージーランド軍の砲撃に耐えつつ収容部隊の到着を待っていた。
20時31分、ウォーカー隊はレーダーで二つの目標を探知。4分後の20時35分には、「風雲」が「巡洋艦3隻」を発見する。「時雨」と「五月雨」も20時40分には敵影を確認。旗艦の「秋雲」でもウォーカー隊を発見していたものの、第三水雷戦隊の先任参謀に「味方の間違いではないか」と問いただされた。「秋雲」駆逐艦長相馬正平中佐は、周囲からの情報と自らの目で確認した後、伊集院大佐に「司令官、敵ではありませんか」と助言し終えた瞬間、ウォーカー隊からの先制攻撃を受けた。ウォーカー隊は20時55分に砲撃を開始し、同時に魚雷14本を発射。先制攻撃を受けた夜襲部隊は、わずか1分後に「夕雲」が魚雷を8本発射し、続いて面舵で右に針路をとって「秋雲」とともに砲撃を開始する。しかし、間もなく「夕雲」はウォーカー隊からの集中砲火により火災を起こす。21時1分、「夕雲」からの魚雷はウォーカー隊に達し、「シャヴァリア」に命中する。「シャヴァリア」の後方にいた「オバノン」は、被雷した「シャヴァリア」を避け切れず追突し、艦首を大破。「オバノン」は「シャヴァリア」から離れた後、「シャヴァリア」乗員の救助作業に取り掛かる。21時5分、「夕雲」に魚雷が命中し、これが止めとなって21時10分に沈没した。この頃には「時雨」と「五月雨」も戦場に到着し、「五月雨」は21時1分に、「時雨」は21時3分にそれぞれ魚雷を8本ずつ発射。続いて砲撃を開始し、三斉射発砲をした瞬間、先に発射した魚雷のうち1本がウォーカー隊の旗艦「セルフリッジ」に命中する。「セルフリッジ」は艦首が垂れ下がって10ノットの速力で戦場から退却していった。「秋雲」は「磯風」と「風雲」を率いて引き返し、距離約8,000メートルに彼方で停止中の「シャヴァリア」と「オバノン」に対して魚雷を発射したものの、命中しなかった。その後、視界が不良となって21時39分に戦闘を打ち切って戦場から離脱。10月7日8時30分、夜襲部隊はラバウルに帰投した。第3艦隊は、偵察機からの報告によりウォーカー隊の3隻では少なすぎると考えており、ニュージョージア島向けの輸送船団を護衛していた第42駆逐群にも戦場に急行するよう命じていた。「夕雲」の大火災がよく見えていたほど戦場に接近していたが、ついに戦闘には間に合わなかった。その代わり、瀕死の「シャヴァリア」を「ラ・ヴァレット」の魚雷で処分し、大破した「セルフリッジ」からウォーカー大佐を「テイラー」に移動させた。海戦が終わった直後の22時、収容部隊は万代浦に到着し、23時50分から収容を開始。三往復した後、10月7日1時10分には万代浦を離れてブインに向かい、8時に帰投。ベララベラ島守備隊はここで解散して、それぞれの原隊へと戻っていった。
「秋雲」と「風雲」、「時雨」と「五月雨」がそれぞれ発見したのは同じウォーカー隊であったが、海戦当時は前者が発見したのが巡洋艦群、後者が発見したのが駆逐艦群と考えられていた。一つの駆逐群を別々に攻撃した結果、戦果は「巡洋艦または大型駆逐艦2隻撃沈、駆逐艦3隻撃沈」と判定された。実際の戦果と大きくかけ離れているのは言うまでもない。戦果は第八艦隊(外南洋部隊)司令官鮫島具重中将から天皇にも報告され、第二十七駆逐隊司令原為一大佐に軍刀一振、「時雨」駆逐艦長山上亀三雄少佐と「五月雨」駆逐艦長杉原与四郎少佐には短刀一本が贈られた。「夕雲」の生存者は、一部はレンドバ島からの魚雷艇に救助されたが、一人の「夕雲」乗員が艇上で乱闘を起こした末に見張り兵を殺害したため、復讐の意味で皆殺しにされた。他方、機関部員を中心とする25名は途中、アメリカ軍が放置していった内火艇を分捕った。やがて魚雷艇が接近して移乗するよう命じられるも、威嚇した末追い払った。内火艇は1日半経ってからブインに到着し、鮫島中将に「夕雲は行方不明、全滅と聞いたが敵のボートを分捕って帰るとはよくやった。御苦労」と賞賛された。太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は後年、ウォーカー隊の敗因としてウォーカー大佐が雷撃を回避する運動を行わず、射撃効果を上げるために隊形と針路を維持し続けたことを挙げている。
食糧管理法施行規則改正で、闇米麦買入者に罰則を新規定。
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