1896年9月18日
1896年9月18日 明治29年
松方正義が第6代内閣総理大臣に就任し、第2次松方内閣が発足
1896年(明治29年)9月10日、松方に大命が降下したものの、以前の第1次松方内閣のときの帝国議会対策での失敗もあり組閣も順調とはいかなかった。三菱財閥の岩崎弥之助は松方に大隈重信の進歩党との連携を提案した。だが、超然主義者の元首相山縣有朋を始め、松方自身が率いる薩摩閥からも反対論が出た。松方は進歩党からは大隈の外務大臣以外の入閣は認めなかったものの、書記官長・法制局長官、更に当時勅任官であった参事官の一部を進歩党系から出すことで合意に達した。この結果、尾崎行雄が外務省参事官に任命されるなど政党からの参事官起用が実現した(逆に、これが第2次山縣内閣による文官任用令改正の遠因となる)。このため、この内閣を松方と大隈の名より「松隈内閣(しょうわいないかく)」とも呼称する。帝国議会開設以来6年にして、政党内閣ではないものの政党の本格的な政権参加が実現したことになる。松方・大隈、そして組閣の功労で日本銀行総裁に抜擢された岩崎の手によって、「大隈財政」・「松方財政」の悲願でありながら実現できなかった金本位制の確立が1897年(明治30年)3月26日公布の貨幣法によって実現する(同年10月1日施行)。また、進歩党の要求していた新聞紙条例の改正が行われて言論統制の一部が緩和された。だが、松方・進歩党が希望するこの二大課題が解決すると、元々大隈との提携に不満があった薩摩閥系閣僚と進歩党側の対立が激化、更に松方が財政難の解決のために地租改正反対一揆以来一種のタブーとなっていた「地租増徴」を提案したことから進歩党内に倒閣の機運が生じた。その結果、1897年(明治30年)10月31日に進歩党は事実上の野党となり、直後に大隈と進歩党系参事官は辞任した。同年12月25日、衆議院で内閣不信任案が上程されて可決が確実視されると、松方は直ちに衆議院解散を断行する(第5回衆議院議員総選挙)。だが、選挙後の政権運営の方策が全く見出せなかった松方はその日のうちに辞表を提出した。衆議院を解散してそのまま内閣総辞職を行った例は大日本帝国憲法・日本国憲法を通じてこの時だけであった。
総理 松方正義 薩摩藩 伯爵
外務 西園寺公望 公家 貴族院 侯爵
内務 板垣退助 土佐藩 自由党総理 伯爵
大蔵 松方正義
陸軍 大山巌 薩摩藩 伯爵 陸軍中将
海軍 西郷従道 薩摩藩 国民協会会頭 伯爵 海軍大将 陸軍中将
司法 芳川顕正 徳島藩 子爵
文部 西園寺公望
農商務 榎本武揚 幕臣 子爵 海軍中将
逓信 白根專一 長州藩
拓殖務 高島鞆之助
班列 黒田清隆 薩摩藩 伯爵 陸軍中将
内閣書記官長 高橋健三 曾我野藩
法制局長官 神鞭知常
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