和俗童子訓103
貝原益軒著『和俗童子訓』103
女子をそだつるも、はじめは、大やう男子とことなる事なし。女子は他家にゆきて、他人につかふるものなれば、ことさら不徳にては、しうと(舅)をつと(夫)の心にかなひがたし。いとけなくて、おひさき(生先)こもれるまど(窓)の内より、よくをしゆべき事にこそ侍べれ。不徳なる事あらば、はやくいましむべし。子をおもふ道にまよひ、愛におぼれ、姑息して、其悪き事をゆるし、其性(うまれつき)をそこなふべからず。年にしたがひて、まづはやく、女徳をおしゆべし。女徳とは女の心さまの正しくして、善なるを云。およそ女は、かたちより、心のまされるこそ、めでたかるべけれ。女徳をゑらばず、かたち(容)を本としてかしづくは、をにしへ今の世の、あしきならはしなり。いにしへのかしこき人はかたちのすぐれて見にくきいもきらはで、心ざまのすぐれたるをこそ、后妃にもかしづきそなへさせ給ひけれ。黄帝の妃ほ母(ほも)、斉の宣王の夫人無塩は、いづれも其かたちきはめてみにくかりしかど、女徳ありし故に、かしづき給ひ、君のたすけとなれりける。周の幽王の后、褒じ、漢の成帝の后、ちょう飛燕、其妹、ちょうしょうよ、唐の玄宗の楊貴妃など、其かたちはすぐれたれど、女徳なかりしかば、皆天下のわざはひとなり、其身をもたもたず。諸葛孔明は、このんで醜婦をめとれりしが、色欲のまよひなくて、智も志もいよいよ清明なりしとかや。ここを以、婦人は心だによからんには、かたち見にくくとも、かしづきもてなすべきことはり(理)たれば、心さまを、ひとへにつつしみまもるべし。其上、かたちは生れ付たれば、いかに見にくしとても、変じがたし。心はあしきをあらためて、よきにうつ(移)さば、などかうつらざらん。いにしへ張華が女史の箴とて、女のいましめになれる文を作りしにも、「人みな、其かたちをかざる事をしりて、其性をかざる事をしる事なし。」といへり。性をかざるとは、む(生)まれつきのあしきをあらためて、よくせよとなり。かざるとは、いつはりかざるにはあらず。人の本性はもと善なれば、いとけなきより、よき道にならはば、なとかよき道にうつり、よき人とならざらんや。ここを以て、いにしへ女子には女徳をもはら(専)にをしえしなり。女の徳は和・順の二をまもるべし。和(やわら)ぐとは、心を本として、かたち・ことばもにこやかに、うららかなるを云。順(したがう)とは人にしたがひて、そむかざるを云。女徳のなくて、和順ならざるは、はらきたなく、人をいかりの(罵)りて、心たけく、けしき(気色)けうとく、面はげしく、まなこおそろしく見いだし、人をながしめに見、ことばあららかに、物いひさがなく口ききて、人にさきだちてさか(賢)しらし、人をうらみかこち、わが身にほこり、人をそしりわらひ、われ、人にまさりがほなるは、すべておぞましくにく(憎)し、是皆、女徳にそむけり。ここを以、女は、ただ、和順にして貞信に、なさけふかく、かいひそめて、しづかなる心のおもむきならんこそ、あらまほしけれ。
【通釈】
女子を育てるのも、最初はおおよそ男子と異なる所はない。女子は他家に行って他人に仕えるのであるから、ことさら不徳では舅や夫の心にかなうのはむずかしい。幼くて、まだ生まれた家にいる時から、よく教えることが大切である。
もし不徳な事があれば、早く戒める。子を思う道に踏み迷い、愛に溺れ、姑息にもその悪い事を許してしまい、生来の心をそこなわせてはならない。
成長するに従い、まずは早いうちに女徳を教えること。女徳とは、女としての心の有様が正しくて善なることをいう。
およそ女というものは、容貌よりも心根の優れているのがよい。女徳よりも見た目で選びかしずかせるのは、昔も今の世も悪い習慣である。
古の賢い人は、容貌がとても醜いのも構わず、心根の優れた女を后妃にもしてかしずかせた。黄帝の妃のぼ母(ぼも。ぼは女へんに莫)、斉の宣王の夫人無塩は、どちらも容貌がとても醜かったが、女徳があったことからかしずかせられ、君の助けにもなった。
周の幽王の后褒姒(ほうじ)、漢の成帝の后趙飛燕、その妹の趙婕妤(ちょうしょうよ)、唐の玄宗の楊貴妃など、その容貌は優れていたが、女徳がなかったために、皆天下の禍いとなり、その身を保つこともできなかった。
諸葛孔明は好んで醜婦を娶ったが、色欲の迷いがなくて、智恵も志もいよい明るく輝いたという。
このように、婦人は心が立派であれば、容貌は醜くとも、かしずかせ大切に扱うのが道理であれば、容貌に心を惑わされることなく、ひとえに慎み守ることである。容貌は生まれついてのものだから、いかに醜かろうとも変えることは難しい。心は悪いのを改めて善きに移ろうとすれば、どうして移らないこどあろうか。
昔、張華が女史の箴(しん)という、女の戒めになる文を作ったが、「人みな、其のかたちをかざる事を知りて、其の性をかざる事を知る事なし」といった。性をかざるとは、生まれつきの悪を改めて良い人になれということである。かざるとは、上辺を偽りかざるということではない。人の本性は元来善であるから、幼い時より善い道を習えば、どうして善い道に移り、善い人とならないことがあろうか。だから古は、女子には女徳を専一に教えたのである。
女の徳は和・順の二つを守ること。和(やわら)ぐとは、心を本として、かたち・言葉もにこやかに、うららかなることをいう。順(したがう)とは、人に従ってそむかないことをいう。女徳がなくて、和順でないのは、腹黒く、人を怒り罵り、心は荒々しく、態度が荒々しく、顔つきは激しく、目つきは大きく見開いて恐ろしく、人を横目に見、言葉は乱暴で、口汚く物を言い、出しゃばってこざかしく、いつも人を恨み、自慢をし、人をけなし冷笑し、自分が人よりまさっているという顔をするのは、すべておぞましく不愉快であり、これらは皆、女徳に背く。それであるから、女はひとえに和順にして貞信に、情け深く、控え目で、物静かな性根であることこそ望ましいのである。
【解説】『女大学』に代表されるように、益軒の女性観、教育法はきわめて評判が悪い。この一節だけでも眉をひそめたり、嫌悪する人もいることだろう。益軒を擁護したり弁護するつもりはない。あくまで、各位において判断されたい。ただ、一つだけ述べさせていただくと、いわゆる男尊女卑、これも「益軒がその元である」「益軒も容認している」といった批判が多いのだが、男尊女卑が上から意識的に鼓吹され、人々の意識に浸透するのは明治時代からであり、江戸時代はむしろそういう意識自体は希薄だった。身分が高い社会では、結婚も自由ではなく、女性は嫁ぎ先の家風に馴染み従うものといったしつけがなされたが、庶民レベルではそういったことはなく、かなり自由だった。益軒も対象を武家など、家庭において教育をする階級に定めており、民百姓すべてに対して言っているのではない。儒教思想(これも何かと批判する向きがあるが)を元にしていることも、対象を知識階層に置き、女性は従属するものという前提に立っている。人はなかなか時代の枠を超越することはできない。進歩した後世の目から見ればいかようにも批判できるが、では、自分がその当時に存在していたなら、益軒の論を真っ向から否定、批判できたかといえば、それは至難の業である。昔を全否定することはたやすいが、翻って今が全肯定できる時代かどうか。昔に比べて良くなった点、あまり変わらない点、むしろ退歩している点はないか。昔を知り、今を知ってこそ、未来は開ける。昔にはいろいろな知恵がある。昔に対しても常に謙虚でありたいと思う。
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