和俗童子訓77

貝原益軒著『和俗童子訓』77

真字は、ことに唐筆の正しき能書を、始より学ぶべし。和字(かな)も、いにしへの能書を始より学ぶべし。和字には中華(から)流あるべからず。真字には和流あるべからず。和流に真をかくと、から流に和字を書とは、皆ひが事也。此理をしらずして、今時から流にかなを書人あり。しかるべからず。草書には和流もあれども、から流にもとづかざるは俗流なり、正流にあらず。本朝上代の能書、三筆、三跡など、皆から流に本づけり。其後、世尊寺、清水谷など、能書の流を家流と云。是又、中華の筆法あるは、俗流にあらず。俗流をば学ぶべからず。まことの筆法なし。近代の和流の内、尊円親王の真跡は、からの筆法あり。よのつねの俗流にまされり。真跡にあらざるは、からの筆法なし。習ふべからず。真跡まれなり。其外、古の筆法をしらで、器用にまかせて書たる名筆、近世多し。世俗は賞翫すれども、古法をしらざるは、皆俗筆なり、学ぶぺからず。


【通釈】

楷書は、特に唐筆の正しい能書を最初から学ぶこと。和字(かな)も、古の能書を初めより学ぶようにする。和字には唐流があってはならないし、楷書には和流があってはならない。和流に楷書を書き、唐流に和字を書くというのは、皆間違いである。この道理を知らずして、今時、唐流にかなを書く人がいるが、それはいけない。草書には和流もあるが、唐流に基づかないのは俗流であり、正流ではない。

我が国の上代の能書、三筆、三跡など、皆唐流に基づく。その後、世尊寺(せそんじ)、清水谷(しみずだに)など、能書の流れを家流という。これもまた唐の筆法があるが、それは俗流ではない。俗流を学んではならない。それは、真の筆法がないからである。

近代の和流の内、尊円親王の真跡は唐の筆法がある。世間によく行われている俗流に勝っている。真跡でないものは、唐の筆法がないから手本にして習ってはならない。真跡まれなり。

このほか、古の筆法を知らず、器用に書いた名筆が近世には多い。世俗はこれを賞翫するが、古法を知らないものは皆、俗筆である。これを手本にして学んではならない。


【語釈】●三筆、三跡 三筆は9世紀頃に活躍した空海(くうかい)・嵯峨天皇(さがてんのう)・橘逸勢(たちばなのはやなり)の3人を指し,三跡(蹟)は10世紀頃に活躍した小野道風(おののみちかぜ,通称は「とうふう」)・藤原佐理(ふじわらのすけまさ,通称は「さり」)・藤原行成(ふじわらのゆきなり,通称は「こうぜい」)の3人。以上は傑出した書家として古くから尊崇され,江戸時代には三筆・三蹟という呼び名が定着した。

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。