和俗童子訓74
貝原益軒著『和俗童子訓』74
巻之四 手習法
古人、書は心画なり、といへり。心画とは、心中にある事を、外にかぎ出す絵なり。故に手蹟の邪正にて、心の邪正あらはる。筆蹟にて心の内も見ゆれば、つつしみて正しくすべし。むかし、柳公権も、心正ければ筆正しといへり。凡書は言をうつして言語にかへ用ひ、行事をしめして当世にほどこし、後代につたふる証跡なり。正しからずんばあるべからず。故に書の本意は、只、平正にして、よみやすきを宗とす。是第一に心を用ゆべき事也。あながちに巧にして、筆蹟のうるはしく、見所あるをむねとせず、もし正しからずしてよみがたく、世用に通ぜずんば、巧なりといへども用なし。然れども、又いやしく拙きは用にかなはず。
凡字を書ならふには、真草共に先(まず)手本をゑらび、風体(ふうてい)を正しく定むべし。風体あしくば、筆跡よしといへども、なら(習)はしむべからず。初学より、必風体すなをに、筆法正しき、古への能書の手跡をゑらんで、手本とすべし。悪筆と悪き風体をならひ、一度あしきくせつきては、一生なをらず。後、能書をならひても改まらず。日本人のよき手跡をならひ、世間通用に達せば、中華の書を学ばしむべし。しからざれぱ、手跡すすまず。唐筆をならふには、先(ず)草訣百韻、王義之が十七帖、王献之が鵞群帖、淳化法帖、王寵が千字文、文徴明が千字文、黄庭経などを学はしむべし。又、懐素が自叙帖、米元章が天馬賦などを学べば、筆力自由にはたらきてよし。
【通釈】
巻之四 手習法
古人は、「書は心画(しんかく)なり」と言った。心画とは、心の中にある事を、外に書き出す絵である。だから手蹟の邪正で心の邪正が表われる。筆蹟で心の内も見えることから、慎んで正しく書くこと。昔、柳公権も、「心正ければ筆正し」と言った。
凡そ書は言を写して言語に変えて用い、過去を示して今の世に施し、後代に伝える証拠となるものである。正しくなければならない。
そのために書の本意は、とにかく正しくして、読みやすいのを本領とし、第一に心がけることである。無理に技巧ばかり力を入れて筆蹟を麗しくし、見た目をよくすることを本領とはしない。もし正しくなくて読みにくく、世間に通用しなければ、技巧がよくても役に立たない。しかし、また卑しくて下手なものは実用に向かない。
およそ字を書き習うには、楷書と草書共にまずよい手本を選び、書体を正しく定めること。書体が悪い場合、筆跡がよくても習わせてはならぬ。初学より、必ず書体は素直で筆法が正しい昔の能書の手跡を選んで手本とすること。悪筆と悪い書体を習い、一度悪いくせがついてしまうと、一生直らないばかりか、能書を手本に習っても改めることができない。日本人のよい手跡を習い、世間に通用する段階に達したならば、中華の書を学ばせる。そうしないと、手跡は進歩しない。
中国の書を習うには、まず草訣百韻(そうけつひゃくいん)、王義之の十七帖、王献之の鵞群帖(がぐんちょう)、淳化法帖、王寵の千字文、文徴明の千字文、黄庭経などを学ばせること。また、懐素(かいそ)の自叙帖、米元章の天馬賦などを学べば、筆力が自由に働くようになるのでよい。
【語釈】●草訣百韻 草訣百韻歌。草書の崩し方を草聖としての王羲之に求め、宋の米元章(芾)の名を編者に託したもの。草書学習の要訣を、五言二句を一文とし、百(実は百六)を超える対句の歌として覚えやすくした。 ●王義之 おうぎし。太安2(303)頃~升平5(361)頃。中国、東晋の政治家・書家。琅邪臨沂(ろうやりんき)(山東省)の人。字(あざな)は逸少(いつしょう)。その書は古今第一とされ、行書「蘭亭序」、草書「十七帖」などが有名。書聖と称される。子の王献之とともに二王といわれる。 ●王献之 おうけんし。[344~388]中国、東晋の書家。字(あざな)は子敬。王羲之の第7子。行・草書の大家で、父とともに二王と称される。楷書の 「洛神賦十三行(らくしんふじゅうさんぎょう)」、行草の「地黄湯帖(じおうとうじょう)」、草書の「中秋帖」などが有名。王大令。 ●王寵 おうちょう。明代の画家。江蘇省蘇洲生。字は履仁(りじん)、のち履吉、別号に雅宜山人(がぎさんじん)。諸生となり、度々科挙に応じたが終に及第しなかった。詩・書・画を能くし、書は虞世南・王献之に私淑し一家を成した。画は黄公望倪瓚の法に学び、山水を能くして、文徴明の後第一とされる。また篆刻は文彭と並び称された。嘉靖12年(1533)歿、40才。 ●文徴明 ぶんちょうめい。1470~1559。中国、明の文人。蘇州(江蘇省)の人。名は璧(へき)。徴明は字(あざな)。のちに徴仲を字とした。号、衡山など。沈周(しんしゅう)に学び、呉派の文人画風を発展させた。著「甫田(ほでん)集」。祝允明(しゅくいんめい)、唐寅(とういん)、徐禎卿(じょていけい)らと親交を結び「呉中四才子」と呼ばれ、南宗画中興の祖とされた。嘉靖38年(1559)歿、90才。なお、江戸時代の日本で文徴明流の書が流行った。
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