和俗童子訓67
貝原益軒著『和俗童子訓』67
古語に、光陰箭の如く、時節流るるが如し。又曰、光陰惜むべし(と)。これを流水にたとふ、といへり。月日のはやき事、としどし(年々)にまさる。一たびゆきてかへらざる事、流水の如し。今年の今日の今時、再かへらず。なす事なくて、なをざりに時日をおくるは、身をいたづらになすなり。をしむべし。大禹は聖人なりしだに、なを寸陰をおしみ給へり。いはんや末世の凡人をや。聖人は尺壁(せきへき)をたうとばずして、寸陰をおしむ。ともいへり。少年の時は、記性つよくして、中年以後、数日におぼゆる事を、只一日・半日にもおぼえて、身をおはるまでわすれず。一生の宝となる。年老て後悔なからん事を思ひ、小児の時、時日をおしみて、いさみつとむべし。かやうにせば、後悔なかるべし。
【通釈】
古語に、「光陰箭(や)の如く、時節流るるが如し」また、「光陰惜むべし、これを流水にたとう」という。月日の過ぎ去る事は年々早くなる。一たび過ぎ去って再び戻らないことは流水に同じである。今年の今日の今の時は、再び返ることはない。なにもせず、いいかげんに時や日を送るのは、身を粗末にすることである。惜しいことではないか。
大禹(たいう)は聖人であったのに、なお僅かな時間を惜しまれた。ましてや末世の凡人はなおさらである。聖人は尺壁(せきへき)を尊ばずに、寸陰を惜しむ、ともいう。少年の時は記憶力がよくて、中年以後になると数日かかってやっと覚える事を、僅か一日や半日で覚えて、しかも生涯忘れず、一生の宝となる。年老いてから後悔しないように、小児の時に時日を惜しみ、励んで努めること。そうすれば後悔することはない。
【語釈】●光陰箭の如く 「光陰流水の如し」「光陰逝水の如し」とも。出典は不明だが、唐代には盛んに使われるようになった。また、我が国では鎌倉時代の曽我物語や江戸時代の浮世草子、仏教の経典などに「光陰矢の如し」が多くみえる。「光」は日、「陰」は月の意味で、「光陰」は月日や時間を表す。 ●尺壁 尺璧非宝(せきへきひほう)。『淮南子(えなんじ)』「原道訓」に「聖人は尺壁を尊ばずして寸陰を重んず」とある。「尺壁」は直径一尺もある大きな宝玉。「寸陰」はほんの短い時間。
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