和俗童子訓66

貝原益軒著『和俗童子訓』66

小児、読書の内に、はやく文義を所々教べし。孝経にていはば、仲尼とは孔子の字なり、字とは、成人して名づくる、かへ名也。子は師の事を云。曾子は孔子の弟子なり、参(しん)は曾子の名。先王は古の聖王の事。不敏は鈍なる事。又、論語の首章をよむ時は、学ぶとは学問するを云。習とは、学びたる事を、身につとめならふなり。悦ぶとは、をもしろきといふ意。楽(たのしむ)とは大きにおもしろき意也。かやうに読書のついでに、文義をおしゆれば、自然に、書を暁し得るものなり。


【通釈】

小児は、読書の内においては早くから文の意味をその都度教えるのがよい。

孝経にていえば、仲尼とは孔子の字(あざな)である、字とは、成人して名づける替え名である。子(し)とは、師の事をいう。曾子(そうし)は、孔子の弟子である、参(しん)は、曾子の名。先王は、古の聖王の事。不敏は、鈍ではない事。

また、論語の首章を読む時は、学ぶとは、学問することをいう。習とは、学んだ事を、わが身に努め習うことである。悦(よろこ)ぶとは、おもしろいという意。楽(たのしむ)とは、大いにおもしろい意。

このように読書のついでに文の意味を教えれば、自然に、書物について意味も明確に通じ得るものである。


【解説】

 当時は、文意を考えずに師について原文を音読する素読方式が行われていた。漢文を訓読し、これをさながらお経のようにただ音読する。漢文は似たような語調が多いため、訓読の規則さえ習得すればだいたいの文章は読むことができる。しかし、意味を考えないで訓点に従って読むため、何が書かれているのかまで理解するとなると、この方法では限界がある。そこで益軒は、師はただ模範読みをするだけでなく、基本的な文意は早いうちに教えるのが必要であることを説く。当時は今のような辞書や解説書がなく、自分で調べるのには限界があり、よほど好きな者でないと、基本的なことでさえ押さえるのが難しい。一々調べていたのでは嫌気がさす。そこで、「仲尼とは孔子の字(あざな)である、字とは、成人して名づける替え名である」といったことは師のほうで説明してしまうほうが、教わる幼児にとって調べる苦労が省けるし、こういった基本的なことがわからないままただお経のように機械的に音読して終わりということを避けることができる。意味が分かったうえで読むほうが身につくのは当然である。

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