和俗童子訓55

貝原益軒著『和俗童子訓』55

巻之三 年に随ふて教える法 書を読む法

聖人の書を経と云。経とは常也。聖人のをしえは、万世かはらざる、万民の則なれば、つねと云い、四書五経等を経と云い、賢人の書を伝と云。伝とは聖人のをしえをのべて、天下後代につたふる也。四書五経の註、又は周程、張朱、其外、歴代の賢人のつくれる書を、いづれも伝と云。経伝は是古の聖賢の述作り給ふ所なり。其載する所は、天地の理にしたがひて、人の道ををしえ給ふ也。其理至極し、天下万世のをしえとなれる鑑なり。天地人と万物との道理、これにもるる事なき故、天地の間、是にまされる宝、更になし。是を神明のごとくにたうとび、うやまふべし。おろそかにし、けがすべからず。ひ

 凡書をよむには、必先手を洗ひ、心につつしみ、容を正しくし、几案のほこりを払ひ、書冊を正しく几上におき、ひざまづきてよむべし。師に、書をよみ習ふ時は、高き几案の上におくべからず。帙の上、或文匣、矮案の上にのせて、よむべし。必、人のふむ席上におくべからず。書をけがす事なかれ。書をよみおはらば、もとのごとく、おほ(覆)ひおさむべし。若、急速の事ありてたち去るとも、必おさむべし。又、書をなげ、書の上をこゆべからず。書を枕とする事なかれ。書の脳を巻きて、折返へす事なかれ。唾を以、幅を揚る事なかれ。故紙に経伝の詞義、聖賢の姓名あらば、つつしみて他事に用ゆべからず。又、君上の御名、父母の姓名ある故紙をもけがすべからず。


【通釈】

巻之三 年に随ふて教える法 書を読む法

聖人の書を経(けい)という。経とは常である。聖人の教えは、万世不変、万民の手本であるから常(つね)という。四書五経等を経といい、賢人の書を伝という。伝とは聖人の教えを述べて、天下後代に伝えるということである。四書五経の註、又は周程、張朱、その他歴代の賢人の作る書を、いずれも伝という。

経伝は古の聖賢の述べ作られたものである。それに載せる所のものは、天地の理に従って人の道を教えられたものである。その理は極め尽くされ、天下万世の教えとなる鑑である。天地人と万物との道理、これに漏れることがないから、天地の間、これにまさる宝は他にない。これを神明のように尊び、敬うこと。おろそかにし、穢してはならない。


【語釈】

●周程、張朱 周敦頤(しゅうとんい)、程顥(ていこう)、程頤(ていい)、張横渠(ちょうおうきょ)、朱熹(しゅき)。周敦頤から張横渠までは北宋の儒学者、朱熹は南宋の儒学者。いずれも宋学の中心的存在。周敦頤[1017~1073]は営道(湖南省)の人。字(あざな)は茂叔。号、濂渓(れんけい)。「太極図説」を著し、朱子学に影響を与えた。「通書」で、道徳的価値の究極としての誠を強調。人は学問によって聖人となりうるものであるとした。程顥[1032~1085]は洛陽(河南省)の人。字は伯淳。号、明道。弟の程頤とともに二程子とよばれる。性理学の基礎を築いた。程頤[1033~1107]は洛陽(河南省)の人。字は正叔。号、伊川。いわゆる程朱学の創建者とされている。厳格な人柄で,官吏としては政敵をつくって成功しなかった。「理一分殊」「性即理」などを唱えて「理」を中心とする独自の思想を打立てるとともに,「居敬窮理」を唱えて,その学問・修養の具体的方法を説き,道学,いわゆる程朱学の体系の基礎を固めた。張横渠[1020~1077は陝西(せんせい)省の人。名は載。字は子厚。横渠先生とよばれた。「太虚即気」を唱え、気の変化によって万象を説明し、また、天地と自己との一体感を強調した。朱子学の源流の一。朱熹[1130~1200]は婺源(ぶげん)(江西省)の人。字は元晦(げんかい)・仲晦。号は紫陽・晦庵(かいあん)など。諡(おくりな)は文公。北宋の周敦頤らの思想を継承・発展させ、倫理学・政治学・宇宙論にまで及ぶ体系的な哲学を完成し、後世に大きな影響を与えた。「四書集注(しっちゅう)」「近思録」「周易本義」「晦庵先生朱文公文集」など。朱子学の祖。江戸時代の儒学も朱子学が幕府で採用され、それ以外は異学とされた。

過去の出来事

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