1900年11月17日
1900年11月17日 明治33年
【内 閣】
第2次山縣有朋内閣
総理 山縣有朋/外務 青木周蔵/内務 西郷従道/大蔵 松方正義/陸軍 桂太郎/海軍 山本権兵衛/司法 清浦奎吾/文部 樺山資紀/農商務 曾禰荒助/逓信 芳川顕正
内閣書記官長 安広伴一郎/法制局長官 平田東助
【元 老】
黒田清隆 伊藤博文 山県有朋
【東 京】
府知事 岡部長職/東京市長 松田秀雄
駿河湾で東京商船学校の練習船「月島丸」が暴風雨により沈没。122人溺死
月島丸(1519トン)は、東京高等商船学校の練習船として明治30年(1897年)長崎三菱造船所で建造された大型練習帆船であった。当時公立商船学校では、200トンから1000トンの小型練習船、また学校によっては、練習帆船が無く民間の帆船で実習していた事からすれば、本船は大型練習 船として設計された最初の船であった。しかし本船は、船齢も3年と新造船といっても不思議でない中、明治33年11月13日(1900年)学生79人を含む乗組員122名を乗せて室蘭港から清水港へ向け出港したが、同月17日消息を絶ってしまった。本格的な捜索が行われ、金華山沖を通過した以降に暴風に遭遇されたと判断された。その後静岡県仁科村(現西伊豆町)沖でカッターが見つかり、本船は駿河湾内で暴風に遭遇し沈没したものと推定され、同県静浦村(現沼津市)の海岸で船長、及び別の海岸で給仕担当乗組員の遺体が発見されただけで、他の実習生・乗組員は行方不明となったままであった。全船協創設と日本丸・海王丸建造の切っ掛けとなった鹿児島商船学校の霧島丸遭難と比較すれば、霧島丸の27年前に海難が発生し、53名殉職した霧島丸より2倍強の乗組員が殉職した大海難で、学業半ばにして亡くなられた先輩達の無念さは霧島丸と全く同じ状況である。このため、古い船を再就航させて乗船実習の急場をしのいだが当然代船が必要であり国費をもって商船学校が直接運航する船として練習帆船大成丸2423トンが建造された。大成丸の名前は、現在も引き継がれ内航用練習船として第4代目が本年7月25日に三井造船玉野で進水する。ところで本船の海難に関し、八代亜紀の「舟歌」にある「ダンチョネ」は、「断腸ね」で、この沈没事故に由来するとの説がある。
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