和俗童子訓27

貝原益軒著『和俗童子訓』27

論語の、「子曰、弟子入ては則ち孝する」の一章は、人の子となり、弟となる者の法を、聖人のをしえ給へるなり。わが家に在ては、先親に孝をなすべし。孝とは、善く父母につかふるを云。よくつかふるとは、孝の道をしりて、ちからをつくすを云。ちからをつくすとは、わが身のちからをつくして、よく父母につかへ、財のちからをつくして、よく養なふを云。父母につかふるには、ちからををしむべからず。次に、おやの前を退き出てては、弟を行なふべし。弟は、善く兄長につかふるを云。兄は、子のかみにて、親にちかければ、うやまひしたがふべし。もし兄より弟を愛せずとも、弟は弟の道をうしなふべからず。兄の不兄をにせて、不弟なるべからず。其外、親戚・傍輩の内にても、年老たる長者をば、うやまひて、あなどる事なかれ。是弟の道なり。凡孝弟の二つは、人の子弟の、行ひの根本也。尤つとむべし。謹とは、心におそれありて、事のあやまりなからんやうにする也。万の事は、つつしみより行はる。つつしみなければ、万事みだれて、善き道行なはれず、万のあやまちも、わざはひも、皆つつしみなきよりをこる。つつしめば、心におこたりなく、身のつつしむわざにあやまりすくなし。謹の一字、尤大せつの事也。わかき子弟のともがら、ことさら是を守るべし。信とは、言にいつはりなくて、まことあるを云。身には行なはずして、口にいふは信なきなり。又、人と約して、其事を変ずるも信なきなり。人の身のわざおほけれど、口に言と身に行との二つより外にはなし。行をつつしみて、言に情あるは、身ををさむるの道也。「汎く衆を愛す」とは、我がまじはり対する所の諸人に、なさけありて、ねんごろにあはれむを云。下人をつかふに、なさけふかきも亦、衆を愛する也。「仁にちかずく」とは、善人にしたしみ、近づくを云。ひろく諸人を愛して、其内にて取わき善人をば、したしむべし。善人をしたしめば、よき事を見ならひ、聞ならひ、又、其いさめをうけ、我過を聞て改るの益あり。此六事は人の子となり、弟となる者の、身をおさめ、人にまじはる道なり。つとめ行なふべし。「行って余力あれば即(ち)用ひて文を学ぶ。」とは、余力はひま也。上に見えたる孝弟以下六事をつとめ行て、其ひまには、又いにしへの聖人の書をよんで、人の道をまなぶべし。いかに聡明なりとも、聖人の教をまなばざれば、道理に通せず、身をおさめ、人に交る道をしらずして、過多し。故に必いにしへのふみをまなんで、其道をしるべし。是則、身をおさめ、道を行なふ助なリ。次には日用に助ある六芸をも学ふべし。聖人の経書をよみ、芸を学ぶは、すべて是文をまなぶ也。文を学ぶ内にも、本末あり。経伝をよんで、学問するは本也。諸芸をまなぶは末也。芸はさまざま多し。其内にて、人の日々に用るわざをゑらびて学ぶべし。無用の芸は、まなばずとも有なん。芸も亦、道理ある事にて、学問の助となる。これをしらでは、日用の事かけぬ芸を学はざれば、たとへば木の本あれども、枝葉なきが如し。故に聖人の書をまなんで、其ひまには文武の芸をまなぶべし。此章、只二十五字にて、人の子となり、弟となる者の、行ふべき道、これにつくせり。聖人の語、ことばすくなくして、義そなはれり。と云べし。


【通釈】

論語の「子曰、弟子(ていし)入(い)ては則ち孝する」の一章は、人の子となり、弟となる者のあり方を聖人が教えられたものである。わが家にいる時は、まず親に孝を尽くすこと。孝とは、善く父母に仕えることをいう。善く仕えるとは、孝の道を知り、尽力することをいう。尽力するとは、わが身の力の限りを尽くして父母に仕え、財の限りを尽くしてよく養なうことをいう。父母に仕えるには、力を出し惜しみしてはならない。

次に、親の前を退いて出てからは、悌(てい)を行うこと。悌とは、善く兄長に仕えることをいう。兄は子の中の目上で親に近い存在であるから、敬い従うべき。もし兄が弟を愛さなくとも、弟は悌の道を捨ててはならない。兄の真似をして、不悌になってはいけない。

その他、親戚・傍輩の内においても、年長者を敬い、あなどってはいけない。これが悌の道である。

およそ孝悌の二つは、人の子、人の弟としての、行いの根本である。大切に務めること。

謹しむとは、心に畏れの気持ちがあり、物事を誤らないようにすることである。さまざまな事は、慎みの心から行なわれる。慎みがなければ、万事乱れて、善い道は行なわれない、いろいろな過ちも災いも、皆慎みがないことから起こる。慎めば心に怠りがなく、身を慎むことをすれば誤りは少ない。謹の一字は、最も大切なことである。若い子弟の輩は、ことさらこれを守ること。

信とは、言葉に偽りがなくて誠意があるのをいう。実際に行動せずに口先だけで言うのは信頼されない。また、人との約束を守らないのも信がない。人の身から発することはいろいろあるが、結局は口から言うことと身に行うことの二つより外にはない。行いを慎み、言葉に情があるのは、身を修めるための道である。

「汎(ひろ)く衆を愛す」とは、我が交わり対する諸人に情があり、深く憐憫することをいう。使用人を使うにあたり、情深いのもまた衆を愛することである。

「仁にちかづく」とは、善人に親しみ近づくことをいう。ひろく諸人を愛して、その中から特に善い人に親しむこと。善人に親しめば、善い事を見たり聞いたりして慣れ親しむようになる。また、その人から諫められ、我が過ちを聞かされて改めるといった益もある。

この六事は人の子となり、弟となる者にとって、身を修め、人に交わる道である。努力して励み行うがよい。

「行って余力あれば即(ち)用ひて文を学ぶ。」とは、余力は暇のあること。上に見える孝悌以下六事を努め行い、その暇には古の聖人の書を読んで、人の道を学ぶようにする。いかに聡明であっても、聖人の教を学ばなければ道理が分からず、身を修めて人に交わる道を知らずして、過ちが多し。だから必ず古聖の書を学び、その道を知るようにすべき。これが身を修め、道を行なう一助となる。

次には日用に役立つ六芸を学ぶのがよい。聖人の経書(けいしょ)を読み、芸を学ぶのは、すべて文を学ぶことである。文を学ぶ内にも、本末がある。経伝(けいでん)を読んで学問をするのは本である。諸芸を学ぶのは末である。芸はいろいろ多くある。その中で、人の日々に必要なことを選んで学ぶ。無用の芸は学ばなくともよいだろうが、芸もまた道理があるもので、学問の一助とはなる。これを知らないと、日用の事に欠かせない芸を学はなければ、例えば木の本があるのに枝葉がないのと同じである。だから聖人の書を学び、その合い間に文武の芸を学ぶようにする。

此の章はただ二十五字だが、これに人の子となり、弟となる者の行うべき道が尽くされている。聖人の語というのは、言葉は少ないが、義はよく備わっているものである。


【語釈】●論語 「学而(がくじ)第一」に「子曰、弟子入則孝、出則悌、謹而信。汎愛衆而親仁、行有余力、則以学文。」(子曰く、弟子(ていし)入りては則ち孝、出でては則ち悌、謹みて信。汎く(ひろく)衆を愛して仁に親しみ、行ひて余力有らば、則ち以つて文を学べ。」とある。弟子は、目下の者を指す場合は「ていし」と読む。

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