和俗童子訓21

貝原益軒著『和俗童子訓』21

四民ともに、其子のいとけなきより、父兄・君長につかふる礼義、作法をおしえ、聖経をよましめ、仁義の道理を、やうやくさとさしむべし。是根本をつとむる也。次に、ものかき、算数を習はしむべし。武士の子には、学間のひまに弓馬、剣戟、拳法など、ならはしむべし。但一向に、芸をこのみすごすべからず。必一事に心うつりぬれば、其事にをぼれて、害となる。学問に志ある人も、芸をこのみ過せば、其方に心がたぶきて、学問すたる。学問は専一ならざれば、すすみがたし。芸は、学問をつとめて、そのいとまある時の、余事なり。学問と芸術を、同じたぐひにおもへる人あり。本末軽重をしらず、おろかなり、と云べし。学問は本なり、芸能は末なり。本はおもくして、末はかろし。本末を同じくすべからず。後世の人、此理をしらず、かなしむべし。殊に大人は、身をおさめ、人をおさむる稽古だにあらば、芸能は其下たる有司にゆだねても、事かけず。されど六芸は、大人といへど、其大略をば学ぶべし。又、軍学・武芸のみありて、学間なく、義理をしらざれば、ならふ所の武事、かへりて不忠不義の助となる。然れば、義理の学問を本とし、おもんずべし。芸術はまことに末なり。六芸のうち、物かき、算数をしる事は、殊に貴賤・四民ともに、ならはしむべし。物よくいひ、世になれたる人も、物をかく事、達者ならず。文字をしらざれば、かたこといひ、ふつづかにいやしくて、人に見おとされ、あなどりわらはるるは口をし。それのみならず、文字をしらざれば、世間の事とことば(詞)に通せず、もろもろのつとめに応じがたくて、世事とどこをる事のみ多し。又、日本にては、算数はいやしきわざなりとて、大家の子にはおしえず。是国俗のあやまり、世人の心得ちがへるなり。もろこしにて、いにしへは、天子より庶人まで、幼少より、皆算数をならはしむ。大人も国郡にあらゆる民(の)数をはかり、其年の土貢の入をはかりて、来年出し用ゆる分量をさだめざれば、かぎりなき欲にしたがひて、かぎりある財つきぬれば、困窮にいたる。是算をしらざればなり。又、国土の人民の数をはかり、米穀・金銀の多少と、軍陣に人馬の数と糧食とをかんがへ、道里の遠近と運送の労費をはかり、人数をたて、軍をやるも、皆算数をしらざれば行なひがたし。臣下にまかせては、おろそかにして事たがふ。故に大人の子は、ことに、みづから算数をしらでは、つとめにうとく、事かくる事多し。是日用か切要なる事にして、かならず、ならひしるべきわざなり。近世、或君の仰に、「大人の子のまなびてよろしぎ芸は、何事ぞ。」と間給ひしに、其臣こたへて、「算数をならひ給ひてよろしかるべししと辛されける。い上よろしきこたへなりけるとかたりつたふ。凡たかきもひききも、算数をしらずして、わが財禄のかぎりを考がへず、みだりに財を用ひつくして、困窮にいたるも、又、事にのぞみて算をしらで、利害を考る事もなりがたきは、いとはかなき事也。又、音楽をもすこぶるまなび、其心をやはらげ、楽しむべし。されど、もはらこのめば、心すさむ。幼少よりあそびたはふれの事に、心をうつさしむべからず、必制すべし。もろこしの音楽だにも、このみ遇せば、心をとらかす。いはんや日本の俗に翫ぶ散楽は、其章歌いやしく、道理なくして、人のをしえとならざるをや。芸能其外、あそびたはふれの方に、心うつりぬれば、道の志は、必すたるもの也。専一ならざれば、直に送る事あたはずとて、学間し道をまなぶには、専一につとめざれば、多岐の迷とて、あなた・こなたに心うつりて、よき方に、ゆきとどかざるもの也。専一にするは、人丸の歌に、「とにかくに、物は思ばず飛騨たくみ、うつ墨なはの只一すぢに」、とよめるが如くなるべし。


【通釈】

四民ともに、その子が幼い時より、父兄や目上に対する礼義や作法を教え、聖人の書物を読ませ、仁義の道理を少しずつ分からせるようにさせる。これは根本を勤めることである。

次に、読み書き、算数を習わせる。武士の子には、学問の合間に弓術、乗馬、剣術、拳法などを習わせる。但し、一つの芸にばかり偏ってはいけない。必ず一つの事に心が移り、それに溺れて害となるからである。学問に志ある人も、芸をさせ過ぎれば、それに心が傾き、学問がおろそかになる。学問は専一でないと進歩し難い。芸は、あくまで学問に励み、そのいとまがある時の余事である。

学問と芸術を同じ類に思っている人がいる。これは本末軽重を知らず、愚かなことであるといえよう。学問は本であり、芸能は末である。本は重く、末は軽い。本末を同じに扱ってはならない。後世の人はこの道理を知らず、悲しいことだ。

[5]17533号                國 語 新 聞           2020年10月23日

殊に高位の人は、身を修め、人を治める稽古さえしておけば、芸能は家来ゆだねても差し支えない。しかし六芸(りくげい)は、高位の人といえども、その大略を学ばせるべきである。

また、軍学・武芸ばかり修めて、学問をせず、義理を知らなければ、習得した武事は、逆に不忠不義を助長することになる。だから、義理の学問を本として重んじるべき。芸術は末である。

六芸のうち、読み書き、算数を知る事は、特に貴賤・四民ともに習わせるべき。弁が立ち、世事に慣れた人でも、物を書く事は達者ではない。文字を知らなければ、言葉や表現が不完全で見苦しく、人に見下げられ、侮られ笑われるのは、なんとも残念ではないか。そればかりか、文字を知らないと、世間の事情に通じず、諸々の務めに対応できず、職務が滞ることばかりが多くなる。

また、日本では算数は卑しい技であるといって、大家(たいけ)の子には教えないが、これはこの国の通念の誤りであり、世人の心得違いである。唐土では、昔は天子より庶人まで、幼少より皆算数を習わせたものである。高官が国郡の総ての民の数を調べ、その年の年貢の量を計り、来年出して使う分量を定めないと、限りなく我欲に従い、限りある財が尽きてしまっては困窮に至ってしまう。これは算数を知らないからである。

また、国土の人民の数を調べ、米穀・金銀の多少と、軍陣に必要な人馬の数と糧食とを調べ、道里の遠近と運送の労費を計り、人数を算出して、軍を出すのも、皆算数を知らなければ行なうことはできない。臣下にまかせていては、いいかげんで間違いを起こす。

だから高官の子は、特に算数を知らなくては務めに疎く、失敗が多くなる。これはふだんから心掛けるべき大切な事にして、必ず習得させるべき技ことある。

近ごろ、ある主君の「高官の子が学んでよい芸は、何であるか」とのご下問に、家来が「算数を習わせるのがよろしかろうと存じ上げます」とお答えになったと伝えられている。よい答えである。

およそ、高位も下位も、算数を知らずしてわが財禄の限度をわきまえず、みだりに財を使い尽くして困窮にいたるのも、また、事に臨むにあたり算数を知らず、利害を考える事もできないのは、とても情ないことではないか。

また、音楽もよく学び、心を和らげて楽しむのがよい。しかし、これに惑溺すると心がすさむ。幼少より遊び戯れの事に心を移させてはならない。必ず制約すること。唐土の音楽でさえ熱中しすぎると心をとろけさせてしまう。ましてや日本の俗世間で弄ばれている散漫な音楽たるやいやしく、道理なくして、人の教えとはとてもならない。芸能その他、遊び戯れの方に心が移れば、道の志は必ず廃れるものである。

何事も専一でなければ、それが成就することができないのだから、学問をして道を学ぶには、専一に努めなければならず、そうしないといろいろ目移りして迷い、あちらこちらと心が移り、善い方に行き着かない。専一にするのは、人丸の歌に「とにかくに、物は思ばず飛騨たくみ、うつ墨なはの只一すぢに」と詠む通りである。


【語釈】●六芸 古代中国において士分以上の人に必要とされた教養のことで、礼(道徳)、楽(がく。音楽)、射(弓術)、御(ぎょ。馬車を操る技術)、書(文学)、数(算数)の6種。儒家で尊ばれた。

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