和俗童子訓2

貝原益軒著『和俗童子訓』2

およそ、人となれるものは、皆天地の徳をうけ、心に仁・義・礼・智・信の五性をむまれつきたれば、其性のままにしたがへば、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五倫の道、行はる。是人の、万物にすぐれてたうとき処なり。ここを以て、人は万物の霊、と云へるなるべし。霊とは、万物にすぐれて明らかなる、智あるを云へり。されども、食にあき、衣をあたたかにき、をり所をやすくするのみにて、人倫のおしえなければ、人の道をしらず、禽獣にちかくして、万物の霊と云へるしるしなし。いにしへの聖人、これをうれひ、師をたて、学び所をたてて、天下の人に、いとけなき時より、道ををしえ給ひしかば、人の道たちて、禽獣にちかき事をまぬがる。およそ人の小なるわざも、皆師なく、をし(教)えなくしては、みづからはなしがたし。いはんや、人の大なる道は、いにしへの、さばかり賢き人といへど、まなばずして、みづからはしりがたくて、皆、聖人を師としてまなべり。今の人、いかでかをしえなくして、ひとりしるべきや。聖人は・人の至り、万世の師なり。ぎれば、人は、聖人のをしえなくては、人の道をしりがたし。ここを以、人となる者は、必聖人の道を、学ばずんばあるべからず。其おしえは、予するを先とす。予すとは、かねてよりといふ意。小児の、いまだ悪にうつらざる先に、かねて、はやくをしゆるを云う。はやくをしえずして、あしき事にそみならひて後は、おしえても、善にうつらず。いましめても、悪をやめがたし。古人は、小児の、はじめてよく食し、よく言時よりはやくおしえしと也。


[通釈]

およそ、人となって生まれたものは、みな天地の徳を受け、心に仁・義・礼・智・信の五性を生まれつき備えているのであるから、その性のままに従えば、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五倫の道が正しく行われる。これは人が万物にすぐれて貴い点である。だから、人は万物の霊、というのであろう。霊とは、万物にすぐれて明らかな智恵があることをいう。しかし、飽きるほど食べ、高級な暖かい衣服を着、居所を安楽なものにするばかりで、人倫の教えがなければ、人の道を知らず、禽獣のようになって、万物の霊といえるものがない。古の聖人はこれを憂い、師たる人を置き、学ぶ所を立てて、天下の人に対して幼い時から人の道を教えさせたならば、人の道が行われ、禽獣のようなふるまいをしなくなる。およそどんな小さな事も、それについての師がなく、教えなくしては、自分でやることは難しい。ましてや、人の大いなる道は、古のどれほど賢き人といえども、学ばずして自分で知ることなど難しいことから、皆、聖人を師として学んだのである。今の人は、どうして教えなくして、一人で知ることができようか。聖人とは、人として完成され、万世の師である。されば、人は聖人の教えなくては、人の道を知り難い。だから一人前の人となろうとする者は、必ず聖人の道を学ばなければならない。その教えは、予(あらかじめ)するのを先とする。予するとは、かねてよりという意味である。小児がまだ悪に移らざる先に、かねてから早く教えることをいう。早く教えずに、悪い事に染まってから教えても、もはや善には移らない。どれだけ戒めても、悪をやめることは難しい。古人は、小児が初めて自分で食べたりものをいうようになった時より早く教えたものである。


[解説]仁・義・礼・智・信の五性、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五倫の道を教育の根本に据えるのを是としているように、益軒は儒教を是としている。現在は儒教というと、一部には旧社会の悪しきものといった批判をする人もいる。もちろん、儒教社会にも得失があり、全面的に良しとするものではない。古書に接するには、まず著者が何を言っているのかを虚心坦懐に読み、その論その考えが何に拠っているのか、それとも自身の体験から編み出されたものかを見極めた上で、評価できるところは評価し、否定されるべきところがあればどういう理由で否定すべきかを明確にすべき。「貝原益軒といえば『女大学』の著者。男尊女卑のけしからぬ人物だ」とか「儒教道徳は階級社会を是認し、支配層のための教えだから認めない」と最初から聞きかじり程度の知識で全否定しては、せっかく参考になるものまで知らぬままに打ち捨てられてしまうことになる。歴史も古典も、どう向き合うか、自分自身が試されるものと知るべき。なお、文中の「聖人」は、基本的には孔子を指す。

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