和俗童子訓1
貝原益軒著『和俗童子訓』1
巻第一 総論上
わかき時は、はかなくてすぎ、今老てしなざれば、ぬす人とする、ひじりの御いましめ、のがれがたけれど、ことしすでに八そじにいたりて、つみをくはへざるとしにもなりぬれば、かかるふようなるよしなしごと云いだせるつみをも、ねがはくば、世の人これをゆるし給へ。としのつもりに、世の中のありさま、おほく見ききして、とかく思ひしりゆくにつけて、かんがへ見るに、およそ人は、よき事もあしき事も、いざしらざるいとけなき時より、ならひなれぬれば、まづ入し事、内にあるじとして、すでに其性となりては、後に又、よき事、あしき事を見ききしても、うつりかたければ、いとけなき時より、早くよき人にちかづけ、よき道を、をしゆべき事にこそあれ。墨子(ぼくし)が、白き糸のそまるをかなしみけるも、むべなるかな。此ゆへに、郷里の児童の輩を、はやくさとさんため、いささか、むかしきける所を、つたなき筆にまかせて、しるし侍る。かかるいやしきふみつくり、ひが事きこえんは、いとはづべけれど、高さにのぼるには、必ひききよりすることはりあれば、もしくは、いまだ学ばさる幼稚の、小補にもなりなんか、といふ事しかり。
[通釈]
若き時はなにもせずだらだらと過ごし、今老てもまだ死なないのは盗人と変わらないという、聖人の御戒めは、私自身も逃れ難いが、私は今年既に八十歳となり、もはやこれ以上罪を重ねることもできない年になったので、不要なつまらない事を言い出す罪も、願はくは世の人これを許していただきたい。年を重ねるにつれて世の中の様子や出来事を多く見聞きして、いろいろ思い知りゆくにつけて考へてみるに、およそ人というのは、善い事も悪い事もまだわからない幼少の時より習い馴れると、最初に知った事が先入観となり、それがその人の性質になってしまうと、後に又、善い事、悪い事を見聞きしても改めることが難しい。だから、幼ない時より早く善い人に近づけ、善い道を教える事が大切である。墨子が白い糸の染まるのを悲しんだのも、最もなことである。このようなわけで、郷里の児童の輩を早く教えるために、いささか昔聞いた事を拙い筆にまかせて記させていただく。このような見苦しいことを書きつけ、間違いを犯すのはとても恥ずかしいことではあるが、高い所に登るには必ず低い所から始めるという道理があることから、もしかすれば、まだ学ばない幼な子にとって、少しでも裨益することもできようか、と思うことである。
[語釈]
●墨子 中国,戦国時代の思想家墨翟 (ぼくてき) の敬称および彼の説を奉じる門人や墨家の著述。もと 71編,現在 53編。他人も公平に愛す兼愛論のほか、非戦論、節倹論が主な思想だが、一方では兵家のような篇や、辞書ような篇、更には儒家の説など、残っているものだけでも多岐にわたる。墨家は一時、儒家を凌駕するほどの勢力となったが、急激に衰退し消滅した。その理由は不明。『墨子』は江戸時代版本としても流通し読まれたが、儒家の書物以外は異端の書という位置づけであったこともあり、『韓非子』などに比べると読む人は限られた。本国の中国でも同様で、見直されて研究が本格的になったのは実に清朝になってからである。
●「墨子が、白き糸のそまるをかなしみける」 墨子泣糸(ぼくしきゅうし)という格言にもなった話。「墨子糸に泣く」ともいう。墨子が白い糸は様々な色に染めることが出来るということから、物事には様々な選択ができるが、それによる結果は戻すことは出来ず、環境次第で人は善にも悪にもなるということを嘆き泣いたという故事。この話は『淮南子(えなんじ)』の「説林訓(ぜいりんくん)」に見える。
[解説]『和俗童子訓』(わぞくどうじくん)は、江戸時代中期、福岡藩の儒学者貝原益軒(かいばらえきけん)によって書かれた教育論。『養生訓』『大和本草』などと並んで益軒の代表的な著作。益軒が81歳の1710年に執筆された、日本で最初の体系的な教育書といわれている。寺子屋での教育に強い影響を与えたとされている。訳本が多数出て現代でも広く読まれており、私がわざわざ拙い訳注をする必要はないが、自分のため、そして、まだ読んだことがない方の一助にでもなればということから、浅学菲才を顧みず全文の訳注をさせていただくことにした。
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