南留別志411(最終回)

荻生徂徠著『南留別志』411(終)

一   十二月の和名は、古(いにしえ)吾邦にも建子(けんし)の正朔を用ひたる時の名なるべし。正月を睦月といふは、子(ね)にても寅にても子細なし。二月を衣便着(きさらぎ)といふ事は、丑の月のさむさ、げにと思はる。仲春の名とはいひがたし。三月を弥生といふは、寅の月更に親し。四月を卯月といふは、卯の月なればなり。今の四月に卯の花さくなれど、それは、卯月に咲く花なるゆゑ、後に名づけたるなるべし。五月をさつきといふは、辰の月は種をおろし、午の月は苗をうゝ(植う)。何れも同じ意なり。六月をみな月といふは、巳の月といふ事なり。「の」を「な」に通はしていへる、殊によしと覚ゆ。七月を文月といふは、申も午もいかなる故とも知りがたし。八月のはづきも、未酉ともに、まさり劣りさだめ難し。九月をなが月といふは、名越の祓をしたるものなれば、神の心もなごめるなるべし。戌の月には、いかにして、名付けたるにか。十月を神無月といふ事、或は純陰の月といひ、或は神々の出雲に集り給ふといふ。皆心得がたき説なり。酉の月は五穀はじめて熟して、神にすゝむるなれば、神嘗月の略言なるべし。十一月を霜月といふは、戌の月霜降なれば、よく叶ひて覚ゆ。十二月をしはすといふ。亥にても丑にても、其故をしらず。合せて考ふれば、建子の世の名をいはん。まされるやうなり。

南留別志 終


[解説]一月から十二月までの月の和名について考察したもの。建子は建子月(けんしげつ)、陰暦11月の異名。子の月(ねのつき)。古代中国では冬至を含む月に、北斗七星の取っ手の先が真下(北の方角)を指すため、この月を十二支の最初である「建子月」とした。以降、12月は「建丑月(けんちゅうげつ)」、翌1月は「建寅月(けんいんげつ)」と呼ばれた。「建」は、「建す(おざす)」をあらわし、北斗七星の取っ手の先が十二支のいずれかの方向を指すことを意味する。

・建寅月(けんいんげつ) → 陰暦1月

・建卯月(けんぼうげつ) → 陰暦2月

・建辰月(けんしんげつ) → 陰暦3月

・建巳月(けんしげつ) → 陰暦4月

・建午月(けんごげつ) → 陰暦5月

・建未月(けんびげつ) → 陰暦6月

・建申月(けんしんげつ) → 陰暦7月

・建酉月(けんゆうげつ) → 陰暦8月

・建戌月(けんじゅつげつ) → 陰暦9月

・建亥月(けんがいげつ) → 陰暦10月

・建子月(けんしげつ) → 陰暦11月

・建丑月(けんちゅうげつ) → 陰暦12月


[あとがき]

 以上、荻生徂徠の『南留別志』という雑記全文について紹介した。この作品はもともと徂徠が自分用にメモのように書き付けたもので、人に対して説明をするといった性質のものではない。そのため、徂徠にはその意味や出典が分かっていても、それが明記されていないために第三者にしてみれば意味が把握しづらい部分がある。それについてできる限り語釈や解説を加えてみたが、残念ながら二カ所ほど不明な所があった。これとは別にもう一か所あったが、それはさる方からご教示頂き、解決した。改めて感謝申し上げたい。

 『南留別志』とは、徂徠においても推測の域を出ないものについて、「~なるべし」としたことから名付けられたものだが、門人によって本書がまとめられて世に広まると、類書が次々と出た。『可成三註』(なるべしさんちゅう 篠崎東海等)、『非なるべし』(富士谷成章)、『南留別志の弁』(著者未詳)、『あるまじ』(伊勢貞丈)、『ざるべし』(谷真潮)といった具合である。いずれも古今東西さまざまなものについて、著者の考えを短く綴ったものである。江戸文学の中ではあまり顧みられない一群ではあるが、参考になるものも多く、どこからでも読めるので、当時の人たちのものの見方や価値観などを知る上でも、ご一読をお勧めしたい。


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