南留別志408
荻生徂徠著『南留別志』408
一 ほとゝぎすを、郭公といふ事は、郭亡といふ事のあるゆゑに、望帝の故事にまぎれたるなるべし。真の郭公は暮春の比(ころ)より、「かつこう」となく鳥あるなり。
[解説]この一文は、二つの中国の故事が混乱して、ほととぎすを郭公(かっこう)と誤解してしまうようになったということを言っている。
まず郭公の故事。郭解(かくかい、生没年不詳)は、前漢の人。字は翁伯(おうはく)。河内郡軹県の人。游侠として知られる。有名な人相見の許負の外孫。父は文帝の時代に誅殺された。郭解は冷静かつ勇敢な人物で、若い頃から密かに人に害を成す一方で意気に感じて節を立てることがあり、意に沿わないことを理由に人を殺すことが多かった。友人の仇討ちを身をもって手助けしたり、亡命した人を隠して窃盗や鋳銭(ニセ金作り)、墓荒らしなどを行うこと数知れずであったが、幸いにも捕まりそうになっても逃げ出すことが出来た。年を取ってからは行いを改め、徳をもって恨みに報いるようになったが、任侠を好み、人を助けても功績を誇らず、一方で睨まれただけで殺意を抱くというところは昔と変わりなかった。しかし彼を慕う若者たちが彼のために復讐し、彼自身はそれを知らないでいた。郭解の甥(姉の子)が郭解の勢力を笠に着てほしいままに振舞っていたが、ある者が怒ってその甥を殺害して逃げた。姉は犯人を捕らえるよう郭解に要求したが、郭解は密かに犯人の居場所を突き止め、犯人からことの次第を聞くと、甥に罪があるとして犯人を逃がした。人々は郭解の義を重んじ、ますます慕われるようになった。また、郭解が出歩くと皆が遠慮し彼を避けたが、避けずにいる者がいた。郭解の食客が彼を殺そうとしたが、郭解は「敬われないのは私の罪だ」と言い、密かに吏に対しその者の兵役を免除するように口を利いてやった。兵役の当番の時期が来ても吏が来なかったためにそれを知ったその者は郭解に謝罪し、それを聞いた若者たちはますます郭解を慕うようになった。豪族を茂陵に移住させることとなった時、郭解は財産がなかったので対象外であったが、吏は怖れて郭解を対象とした。衛青は郭解は対象外であると述べたが、武帝は「将軍を動かすほどの権力があるのだから、貧しいわけがない」と言った。移住の際、餞別が千万以上集まった。その餞別を渡さないようにしようとした楊季主という人物の子は郭解の甥(兄の子)に殺された。郭解が関中に入ると、関中の賢人や豪族がこぞって交際を求めた。楊季主は同じ邑の人間に殺され、そのことを訴え出ようとした家の者も殺された。それを聞いた武帝は郭解を捕らえようとしたが、郭解は逃げ出した。道中、面識の無かった籍少翁は逃亡を助け、籍少翁は自殺して自分の口を塞いだ。郭解は捕らえられて取り調べられたが、郭解の犯罪はどれも大赦以前の事ばかりで処罰の対象にならなかった。ある儒生が「郭解は法を破り悪事をしているばかりであるのに、どうして賢者だと言えるのか」と言ったところ、それを聞いた郭解の食客がその儒生を殺して舌を抜いた。吏はそのことについて郭解を取り調べたが、郭解は殺した者を知らなかったため、無罪とせざるを得なかった。しかし御史大夫の公孫弘は「郭解は無位無官でありながら任侠を行い権力を行使し、睨まれただけで人を殺しておいて自分は知らないでいる。これは自ら知りつつ殺すよりも酷い罪である。大逆無道の罪に当たる」と議論を出し、そのため郭解は一族皆殺しになった。司馬遷は「世間は任侠の志を知らずに朱家や郭解を下っ端ヤクザのごとき連中だと見下すのは悲しいことだ」「遊侠とは、その行為が世の正義と一致しないことはあるが、しかし言ったことは絶対に守り、なそうとしたことは絶対にやりとげ、一旦引き受けたことは絶対に実行し、身を投げ打って、他人の苦難のために奔走し、存と亡、死と生の境目を渡った後でも、己の能力におごらず、己の徳行を自慢することを恥とする、そういった重んずべきところを有しているものである」「孟嘗君・春申君・信陵君などはいずれも貴族で富裕であったため名声があった。人物として優れてはいるが、それは追い風に乗って叫びを上げたようなものだ。ところが民間の裏町に住む侠客について言えば、己の行いをまっすぐにし、名誉を重んじた結果、評判は天下に広がり、立派だと褒めない者は無かった。これこそ困難なことなのだ。秦より以前の時代では、民間独行の遊侠の事績が埋没し、伝わっていないことを私は極めて残念に思う」
次に望帝。昔、杜宇という人物が蜀の国王になり、望帝と呼ばれた。彼は国民を愛し、人々を率いて荒地を開墾し耕地を拡大し、蜀の国を非常に豊かにした。そのころ湖北省の荊州に鼈霊(べつりょう)という人がいたが、もとは井戸の中のスッポン(鼈)で、井戸から出てきて人間に変化したものであった。しかし彼は人間に変わってすぐに死んでしまい、その死体は川に漂った。不思議なことにこの死体がある場所の川は常に西向きに流れるようになっており、長江を逆流して三峡・巴濾を過ぎて、〔山民〕山に行き着いた時、突然生き返った。鼈霊は望帝の所へ挨拶に出かけたが、その頃望帝には悩み事があった。望帝の悩み事とはもともと四川に住んでいた龍蛇妖怪の反撃であった。蜀人の開墾によって住処を追われることを恐れた彼らは、風を吹かせて全ての石ころを巫山(ふざん)の渓谷に運び、峻険な高山を作って悪龍や鬼の住処としてしまった。また渓谷付近は川をせき止められてしまったので、水位はどんどん上がり田畑も財産も水に沈んだ。望帝は鼈霊に接見し、その学の高さと治水の能力を知ったので、彼を丞相に任命した。彼を巫山に派遣し妖怪たちを駆逐し川を開いて民衆を救おうとしたのである。鼈霊は多くの有能な兵と工匠たちを引き連れ巫山に赴き、六日六晩龍蛇と戦ってそれを捕らえて牢につないだ。また鬼怪とは九日九晩戦って捕らえて巫山峡の鬼門に入れた。次に巫山一体の石の山に取り掛かった。キ峡・巫峡・西陵峡を穿って、国土に充満した洪水を川に沿って東の海に向かって流した。そうしてまた蜀の国は人々の楽園に戻った。望帝は人材を愛する国王だったので、鼈霊の活躍を見てその才能は自分以上だと思い、王位を継承させ、自分は西山に隠居した。鼈霊は覆いを継承し「叢帝(そうてい)」または「開明氏」と称し、水利修理を行い、田地を開墾するなど善政を敷いた。人々は楽しい生活を送り、望帝も西山で安心して過ごすことができた。しかし、叢帝は徐々に傲慢になり臣民の意見を聞き入れなくなり、民のことを考えなくなっていった。それを聞いた西山の望帝は非常に気に病み、叢帝を諭す方法を考えた。やはり自ら尋ねて話をするのがいいだろうと考えた望帝は西山を降りて都へ向かったのであるが、それを知った民衆達が望帝の元に集まって一大集団となってしまった。事情を知らない叢帝はよもや望帝が復位を狙っているのではないか、都を攻め落とすつもりなのではないか、と疑惑を抱いた。そこで叢帝は都の城門を閉めて望帝と民衆を城内に入れなかった。望帝は仕方なく西山に帰ったが、叢帝の政治を非常に心配に思った。「もしも私が鳥になることが出来たら、宮中の高い木の梢にとまって、叢帝に民を愛する道理を説くことができるであろうに」そんなことを考えていたところ、望帝は一羽の杜鵑(ほととぎす)に変化してしまった。そして杜鵑は蜀王宮の花園の楠の上にとまり、「民貴〔口牙〕、民貴〔口牙〕(かっこう)」と鳴いた。叢帝はその杜鵑の鳴き声を聞いて、望帝の善意を理解し、自分が間違っていたことを悟った。この叢帝も四川民衆によって神仙として祭祀を受けているという。しかし杜鵑に変わってしまった望帝は人間に戻ることは出来なかった。その後も杜鵑は昼夜を問わず鳴き、民衆を大切にすることの大切さを叫んでいるのだが、後の帝王達は誰もそれを理解しようとはしなかった。杜鵑は叫び続けて血を吐き、その血のせいでくちばしが赤く染まってしまったのである。望帝の名前「杜宇」も実はホトトギスという意味である。
以上の二つの故事がいつしか混同され、姿かたちの似ている杜鵑と郭公も混同されるようになったということ。画像は左が郭公、右がほととぎす。
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