南留別志402

荻生徂徠著『南留別志』402

一  儒者のかしら(頭)そ(剃)りしは、惺窩(せいか)よりはじまりて、僅に六七十年の間なり。元禄の比(ころ)より皆むかしにかへりたれば、今の人は儒者のかしらそりしをしらぬ人も多し。医者のかしらそるも、かゝるためしなるべし。記録したる物なければ、人々、昔よりの事と思ふのあまりに、医者はいそがはしきものなれば、かしらそるぞ便なる。閨門(けいもん)の内にも出入る事しきりなれば、ほうし(法師)なるぞよきなどいふなり。習俗は、人の心までをも移す物なりけり。


[語釈]

●惺窩 藤原惺窩。安土桃山・江戸前期の儒者。播磨生。冷泉為純の子。字は斂夫、別号に惺斎・北肉山人等。初め僧となり、のち儒学に心を傾け、朱子学を提唱する。徳川家康に招かれて進講。林羅山らと親交する。家名の冷泉を名乗らず、中国式に本姓の藤原および籐を公称した。 

●閨門 寝室の入口の戸。転じて、寝室。ねや。閨房。また、家庭のなか。


[解説]江戸初期は、僧侶の他に医師、さらには儒者も剃髪をしていた。いわゆる坊主頭である。医師は現在のように国家試験をパスした者でなければ医師免許が交付されないといった厳格な制度はなく、単に届出をして許可されればすぐ開業できた。とはいっても、代々の家業として医師をしている家柄でなければ、道具・器具類をはじめ必要なものがいろいろあるし、いいかげんな知識では誤診ばかりして信用がなくなり、誰もよりつかなくなる。そのため、医書を読解しなければならず、医書は漢方、つまり漢文であるから、漢文を読むことができなければならない。しかも医書は専門用語が多く、一般的な漢文力だけでは読みこなせないため、儒者が医者を兼ねるといったことが多かった。また、僧侶も経文をはじめ漢文に親しんでいることから、医術の心得がある人も多かった。つまり、現代のように職業が細分化されていなかったこと、特に僧侶や医者の教養の土台には漢文の素養があったから、儒者・医者・僧侶はほとんど重なる部分が多い。なお、「閨門の内にも出入る事しきりなれば、ほうしなるぞよきなどいふなり」の部分であるが、僧侶が遊郭で女郎買いをするにあたり、医師の触込みで登楼することが多かった。風体が医師も僧侶も同じようなものなので、職業身分の詐称は半ば公然であったという。なお、江戸城内で雑務をするお茶坊主衆も僧侶ではないが、剃髪をし、僧侶の風体をした。それと識別できるし、神聖な場には僧体が相応しいからである。

  図は、左が藤原惺窩、右が剃髪していた当時の医師(御典医)。

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