南留別志401

荻生徂徠著『南留別志』401

一   「玉ぼこの道」といへるは、大己貴命(おおなむちのみこと)の広矛をつきて、大八洲(おおやしま)をめぐりたまへるより起れる詞なるべし。古は道のしるしに矛をたてたりといふは僻事(ひがごと)ならん。今の世には、それをばしらで、行基菩薩の道を開けるといふはいかにぞや。かれはたゞ、功徳のために、橋梁をつくれるなるべし。是より前も、王化は大八洲にあまねかりしを、道といふ物なくて、いかでかは御調物をばはこびけん。


[語釈]

●玉ぼこの道 「玉ぼこの」(玉鉾の)は「道」「里」にかかる枕詞。語義・かかり方は未詳。「玉鉾の道行き暮らし」〈万葉集・七九〉 

●大己貴命 大国主の別名。他に,葦原醜男(あしはらのしこお),八千矛神(やちほこのかみ),顕国玉神(うつしくにたまのかみ)などがある。これらは多くの神格の集成・統合として成った事情にもとづいている。 

●大八洲 日本のこと。 

●行基 行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668) - 天平21年2月2日(749)、奈良時代の僧。河内国(後和泉国)大鳥郡(現・大阪府堺市)生。寺と僧侶を広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。行基集団を形成し、国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内を中心に民衆や豪族など階層を問わず困窮者のための布施屋9所、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。法名は行基、諡号は行基菩薩・行基大徳、尊称は行基上人・行基法師。画像は行基菩薩坐像(唐招提寺蔵・重要文化財)

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。