南留別志397

荻生徂徠著『南留別志』397

一   寛永通宝の行はれざる前は、銭に美悪ありて、多きにあたるあり。少きにあたるありけりと、祖母のかたりたまひし。明朝の法なるべし。永楽といふ事、収税の法となれゝば、彼国にまかせたる事あきらかなり。


[語釈]

●寛永通宝 江戸時代を通じて広く流通した銭貨。寛永13年(1636)に創鋳、幕末まで鋳造された。寛永通宝は大別すると銅一文銭(古寛永・新寛永)・鉄一文銭・真鍮四文銭・鉄四文銭となるが、裏の文字や書体の細かな違いなどで細かく分類すると数百種以上に及ぶ。江戸時代を通じた銅一文銭の総鋳造高は、明治時代の大蔵省による流通高の調査では2,114,246,283枚としている。しかしこの数値は鉄銭などとの引換に回収され安政年間に幕府庫に集積された数であり、総鋳造量は300~400億枚にも上るとの推定もある。 

●永楽 永楽通宝。寛永通宝以前の通貨。江戸幕府が成立すると、幕府は金座・銀座を設置して金貨・銀貨を発行して統一を進めた。銅銭については、慶長13年(1608)に江戸を中心とした東国で通用していた永楽通宝(永楽銭)の発行を停止し、翌年には金1両=永楽銭1貫文=京銭4貫文=銀50目の公定相場を定めて、京都を中心に流通していた"京銭"の通称で呼ばれていた鐚銭という私鋳銭が幕府の標準銅貨とされた。これは、徳川の拠点であった東国の幕府領を対象にした撰銭令の一種であったが五街道の整備によって江戸と上方(京都・大坂)の交通整備を図っていた幕府が自らの拠点では一般的であっても日本全体では特異な流通であった永楽銭の通用を止めて京銭を基に銅銭の統一を図ったものであった。また、徳川家康・秀忠父子の上洛や大坂の陣による軍事行動の影響で東海道筋の伝馬・駄賃相場は不安定であり、銅銭の大量流通による撰銭の頻発が発生していたことへの対応策として慶長から元和年間にかけて幕府は慶長13年の方針の延長線上にある撰銭令を複数回発令している。こうした方針は徳川氏と同様に豊臣政権下で領国内で独自の銅銭を発行していた諸藩を直ちに拘束するものではなかったが、幕府の政治的優位の確立と共にその政策にも影響を与えつつあった。京銭は対外取引の場でも採用され、オランダ・ポルトガルなどのヨーロッパの商船や日本の朱印船によって中国や東南アジアに輸出されていた。この大量輸出は日本国内における深刻な銅銭不足をもたらして銭相場を上昇させた。

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