南留別志389

荻生徂徠著『南留別志』389

一   火あぶりといふ事は、から(唐)にもやまと(大和)にも、古はきかぬ事なり。耶蘇(やそ)の法なるべしとおもはる。火の罪を犯したるをば、火の刑に行ふは、仏法の因果によく叶へれど、仏法には、世間法をたてず。仏法に似て、世間法をたてたるは耶蘇なるべし。天学を本とすればなり。


[解説]江戸時代、放火犯などに対して火刑が行われた。それ以前にはほとんど例がなく、突然公法として定められた。このあたりのいきさつは興味あるところだが、今は調べ得ていない。中国でも、劉邦の囮となって捕らえられた紀信が項羽によって火刑に処された例など数えるほどしかない。江戸時代に入ってから突如、それも積極的に採用され、実施された。「火の罪を犯したるをば、火の刑に行ふは、仏法の因果によく叶へれど」というのは「目には目を歯には歯を」の精神に通じるものだが、仏法でも罰としては定めていない。そこで、徂徠は西洋の法をもとにしたものであろうとする。西洋では異端審問(魔女狩り)などで多用され、最盛期にはそれこそ日常的に行われた。

江戸の火刑は罪人を竹枠が組んである柱に縛り付け、足元には薪を積んで踏ませ、顔以外の罪人の体を萱(かや)で覆い隠す。柱や縄はすぐに焼け落ちないように泥を塗る。このようにして着火させる。実際には、柱に縛りつける段階でわざと首に巻く縄を強く締めて、その段階で絶命させることもあったが、完全に生きたままの状態で燃やすこともあった。江戸時代、放火犯の処刑が過酷だったのは、江戸など密集した地域でひとたび火災が発生するとたちまち大火となり、その損害は莫大なものだったためで、都市あるいは行政がそれだけ火事を恐れたのである。江戸城でも、必要最低限しか蝋燭や火鉢を置かず、冬の寒い中でも、役人たちは火鉢のない部屋で執務した。冬の早朝などは畳が氷のように冷たかったが、寺社奉行となった老齢の大岡越前がこの状態のために体調を崩し、死に至ってしまったほどである。そこまで火の気を恐れたのだから、放火犯に対する憎しみも激しくて当然ではある。

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